七月に入り、大学は前期試験を控えた慌ただしい時期に入っていた。紗奈は図書館に通いながら、着実にノートを積み重ねていた。
ある日、実家から小さな荷物が届いた。母からの差し入れ──お茶菓子と、常備薬、そして一冊のノートだった。
紗奈は荷物を開けながら、同封されていた一枚の便箋に気づいた。母の字だった。
紗奈へ
荷物の整理をしていたら、去年の夏に買ったまま渡しそびれていたノートが出てきました。渡すタイミングがなくて、ずっと持っていました。
あの夏、救急車の中で、あなたの手を握りながら、私はずっと考えていました。
「もっと早く、気づいてあげられなかったのか」って。
でも今は、少し違うことを思っています。
気づけなかったことより、こうしてまた一緒に晩ご飯を食べられる日が来たこと。それだけで、私は十分だと思っています。
紗奈は、生きていてくれるだけで、お母さんの誇りです。
大学も、恋も、将来のことも、全部ゆっくりでいい。
ただ、これからも、つらい時は「つらい」と言ってください。それだけが、お母さんのお願いです。
母より
紗奈は便箋を持ったまま、しばらく動けなかった。
文字が滲んでいく。気づけば、頬を涙が伝っていた。声を殺すこともできず、紗奈はそのまま畳に座り込んで泣いた。
(誇りだなんて。何もできなかったのに)
(迷惑ばっかりかけたのに)
そう思う自分と、母の言葉をそのまま受け止めたい自分が、胸の中でせめぎ合っていた。
だが涙が止まらないまま、紗奈は気づいていた。これは悲しみの涙ではなく、もっと別の何かだということに。
長い間、誰かに「生きているだけでいい」と言われることを、紗奈は自分に許してこなかった。役に立たなければ、誰かの期待に応えなければ、価値がないと、どこかでずっと思い込んでいた。
その思い込みが、母のたった数行の手紙で、少しずつ崩れていくのを感じた。
紗奈は震える手でスマホを取り、母に電話をかけた。
「……もしもし」
「お母さん、手紙……」
それ以上、言葉が続かなかった。電話の向こうで、母がしばらく黙っていた。
「読んでくれたんだね」
「うん」
「ちゃんと言葉にできてたか、自信なかったんだけど」
「できてた。……できてたよ」
紗奈は嗚咽を堪えながら、なんとか言葉を絞り出した。
「ありがとう、お母さん」
「こちらこそ。……ありがとう、紗奈。生きててくれて」
その一言で、紗奈の涙腺は完全に決壊した。電話越しに、母も静かに泣いているのが分かった。
言葉にならないまま、二人はしばらく、ただ電話を繋いだまま、互いの息遣いだけを感じていた。
その夜、紗奈は悠真にも手紙のことを話した。
〈お母さんから、手紙もらった〉
〈読んだら、めちゃくちゃ泣いた〉
〈どんな手紙だった?〉
紗奈は少し迷ってから、手紙の一部を打ち込んだ。
〈「生きていてくれるだけで、誇り」って書いてあった〉
しばらく返信が来なかった。紗奈が少し心配になった頃、悠真からメッセージが届いた。
〈俺も、今、ちょっと泣いてる〉
〈紗奈のお母さん、すごいな〉
〈俺も同じこと、いつでも紗奈に言うから。忘れないで〉
紗奈は画面を見つめながら、また涙がこぼれるのを感じた。今度は、悲しみでも喜びでもない、もっと温かい何かだった。
その晩、紗奈は久しぶりにノートの一番新しいページに、長く文字を書いた。
今日、初めて「生きているだけでいい」を、本当に信じられた気がする。
役に立たなくても、期待に応えられなくても。
ただ生きていることに、意味があると言ってくれる人がいる。
母がいて、悠真がいて、佐伯がいて、恒一がいて、玲奈がいる。
去年の私は、自分が誰かの重荷になっていると思っていた。
でも本当は、生きているだけで、誰かを支えていたのかもしれない。
そのことに、今日、やっと気づけた。
窓の外、七月の夜風が、そっとカーテンを揺らしていた。紗奈は手紙をノートの間に挟み、大切にしまった。
明日からも、まだ途中の日々が続く。でも今夜だけは、その途中にいることが、少しも怖くなかった。
ある日、実家から小さな荷物が届いた。母からの差し入れ──お茶菓子と、常備薬、そして一冊のノートだった。
紗奈は荷物を開けながら、同封されていた一枚の便箋に気づいた。母の字だった。
紗奈へ
荷物の整理をしていたら、去年の夏に買ったまま渡しそびれていたノートが出てきました。渡すタイミングがなくて、ずっと持っていました。
あの夏、救急車の中で、あなたの手を握りながら、私はずっと考えていました。
「もっと早く、気づいてあげられなかったのか」って。
でも今は、少し違うことを思っています。
気づけなかったことより、こうしてまた一緒に晩ご飯を食べられる日が来たこと。それだけで、私は十分だと思っています。
紗奈は、生きていてくれるだけで、お母さんの誇りです。
大学も、恋も、将来のことも、全部ゆっくりでいい。
ただ、これからも、つらい時は「つらい」と言ってください。それだけが、お母さんのお願いです。
母より
紗奈は便箋を持ったまま、しばらく動けなかった。
文字が滲んでいく。気づけば、頬を涙が伝っていた。声を殺すこともできず、紗奈はそのまま畳に座り込んで泣いた。
(誇りだなんて。何もできなかったのに)
(迷惑ばっかりかけたのに)
そう思う自分と、母の言葉をそのまま受け止めたい自分が、胸の中でせめぎ合っていた。
だが涙が止まらないまま、紗奈は気づいていた。これは悲しみの涙ではなく、もっと別の何かだということに。
長い間、誰かに「生きているだけでいい」と言われることを、紗奈は自分に許してこなかった。役に立たなければ、誰かの期待に応えなければ、価値がないと、どこかでずっと思い込んでいた。
その思い込みが、母のたった数行の手紙で、少しずつ崩れていくのを感じた。
紗奈は震える手でスマホを取り、母に電話をかけた。
「……もしもし」
「お母さん、手紙……」
それ以上、言葉が続かなかった。電話の向こうで、母がしばらく黙っていた。
「読んでくれたんだね」
「うん」
「ちゃんと言葉にできてたか、自信なかったんだけど」
「できてた。……できてたよ」
紗奈は嗚咽を堪えながら、なんとか言葉を絞り出した。
「ありがとう、お母さん」
「こちらこそ。……ありがとう、紗奈。生きててくれて」
その一言で、紗奈の涙腺は完全に決壊した。電話越しに、母も静かに泣いているのが分かった。
言葉にならないまま、二人はしばらく、ただ電話を繋いだまま、互いの息遣いだけを感じていた。
その夜、紗奈は悠真にも手紙のことを話した。
〈お母さんから、手紙もらった〉
〈読んだら、めちゃくちゃ泣いた〉
〈どんな手紙だった?〉
紗奈は少し迷ってから、手紙の一部を打ち込んだ。
〈「生きていてくれるだけで、誇り」って書いてあった〉
しばらく返信が来なかった。紗奈が少し心配になった頃、悠真からメッセージが届いた。
〈俺も、今、ちょっと泣いてる〉
〈紗奈のお母さん、すごいな〉
〈俺も同じこと、いつでも紗奈に言うから。忘れないで〉
紗奈は画面を見つめながら、また涙がこぼれるのを感じた。今度は、悲しみでも喜びでもない、もっと温かい何かだった。
その晩、紗奈は久しぶりにノートの一番新しいページに、長く文字を書いた。
今日、初めて「生きているだけでいい」を、本当に信じられた気がする。
役に立たなくても、期待に応えられなくても。
ただ生きていることに、意味があると言ってくれる人がいる。
母がいて、悠真がいて、佐伯がいて、恒一がいて、玲奈がいる。
去年の私は、自分が誰かの重荷になっていると思っていた。
でも本当は、生きているだけで、誰かを支えていたのかもしれない。
そのことに、今日、やっと気づけた。
窓の外、七月の夜風が、そっとカーテンを揺らしていた。紗奈は手紙をノートの間に挟み、大切にしまった。
明日からも、まだ途中の日々が続く。でも今夜だけは、その途中にいることが、少しも怖くなかった。



