ベストフレンズ

 六月に入り、梅雨の季節がやってきた。去年の今頃、紗奈が誰にも言えないまま心を閉ざしていった季節。カレンダーをめくるたびに、紗奈はその記憶がふと蘇るのを感じていた。

「去年の自分と、今の自分、比べちゃうんだよね」

 ゼミの帰り道、紗奈は佐伯にぽつりと漏らした。

「比べて、どう?」

「分からない。同じ季節だから、なんとなく身構えちゃう」

 佐伯はしばらく黙って歩いていたが、やがて口を開いた。

「季節が同じだからって、同じことが起きるとは限らないよ。でも、身構える気持ちも分かる」

「うん」

「もし何かあったら、去年より早く言えばいい。それだけだと思う」

 紗奈はその言葉を、静かに受け止めた。


 その週末、紗奈は久しぶりに、少しだけ調子を崩した。理由ははっきりしなかった。天気のせいか、季節の記憶のせいか、あるいは何もないところから、ふと訪れる波だったのかもしれない。

 課題が手につかず、ベッドから起き上がれない朝が続いた。紗奈は自分の中で、去年のパターンが繰り返されようとしていることに気づいた。

(言わなきゃ。去年より、早く)

 紗奈はスマホを手に取り、母にメッセージを送った。

〈最近、ちょっと調子悪い。梅雨のせいかもしれないけど、一応伝えとく〉

 すぐに返信が来た。

〈教えてくれてありがとう。無理しないでね。クリニックの予約、詰めておく?〉

〈うん、お願い〉

 以前なら、この一言を送るまでに何日も、あるいは何週間もかかっていたかもしれない。今回は、二日で送ることができた。それだけでも、大きな違いだった。



同じ日、悠真にも短く伝えた。

〈今週末、あんまり元気ないかも。会うの、また今度でいい?〉

〈了解。無理すんな〉

〈心配かけてごめん〉

〈謝らなくていい。教えてくれて助かる〉

 悠真からの返信は短かったが、その短さの中に、去年の一年間で積み重ねてきたものが表れているように、紗奈には感じられた。



 翌週、クリニックでの診察。医師は紗奈の話を聞きながら、静かに頷いた。

「去年と同じ季節に、同じような揺れが来ること自体は、珍しくないですよ」

「そうなんですか」

「体や心には、季節のリズムがあります。去年、辛かった季節に、また少し不安定になるのは自然なことです。大事なのは、それを“後退”と捉えないこと」

 紗奈は医師の言葉を、去年のノートの余白に書き足した。

 季節のリズム。後退じゃない。

「今回、ちゃんと早めに伝えられたんですね」

「はい。……前より、少しだけ早く言えました」

「それは大きな進歩ですよ」

 医師はそう言って、小さく微笑んだ。


 一週間ほどで、紗奈の調子は少しずつ持ち直していった。完全に元通りというわけではなかったが、去年のように誰にも言えないまま深く沈んでいくことはなかった。

 日曜の夜、紗奈は久しぶりにノートを開いた。

 同じ季節に、同じように揺れた。でも、去年とは違うことが一つあった。

「言えた」ということ。

 波が来ることは、たぶんこれからもある。

 それでも、去年より少しだけ、早く誰かに手を伸ばせるようになった。

 それだけで、十分な気がする。

 窓の外、雨が静かに降り続いていた。去年と同じ雨のはずなのに、今年は少しだけ、その音が優しく聞こえた。