ベストフレンズ

 大学のキャンパスは、半年前と変わらない姿でそこにあった。桜が満開の並木道、行き交う学生たち、掲示板に貼られた新歓のポスター。何も変わっていないようで、紗奈だけが違う場所から歩いてきたような、そんな感覚があった。

 正門をくぐる前に、紗奈は一度立ち止まった。

(大丈夫。ゆっくりでいい)

 深呼吸を一つして、紗奈は歩き出した。



 ゼミ室の扉の前で、紗奈はもう一度足を止めた。半年前、この扉から逃げるように出て行った日のことを思い出す。あの日と同じ扉が、今は少し違って見えた。

 扉を開けると、数人の学生が既に席についていた。その中に、佐伯の姿があった。

「紗奈!」

 佐伯が真っ先に気づいて、手を振った。

「久しぶり」

 紗奈は小さく手を振り返しながら、教室に足を踏み入れた。

「隣、空けといたから」

 佐伯が指した席は、以前紗奈がいつも座っていた場所だった。紗奈は少し驚いた顔をした。

「ずっと空けてたの?」

「まさか。今日、来る前に確保しただけ」

 佐伯はいたずらっぽく笑った。紗奈もつられて笑い、席に座った。


 ゼミの担当教授が入ってきて、新年度のオリエンテーションが始まった。教授は特別なことは何も言わず、いつも通りの淡々とした口調で、今年度の進め方を説明していく。

 紗奈のことに触れたのは、ほんの一言だけだった。

「今年度から、柊さんも一緒です。よろしく」

 それだけだった。それ以上でも、それ以下でもない扱いに、紗奈はかえって安堵した。

(特別扱いされなくていい。ただ、ここにいさせてもらえるだけで、十分)


 授業が終わった後、佐伯と学食に向かった。

「どう、久しぶりの授業」

「緊張した。でも、思ったより大丈夫だった」

「思ったより、ね」

 佐伯はスープを一口飲んでから、続けた。

「無理してない? 正直に言っていいよ」

 紗奈は少し考えてから答えた。

「今のところは、大丈夫。でも、たぶんこれから疲れが出てくると思う。前もそうだったから」

「そしたら、また教えて。付き添うから、どっかで座り込みたくなったら」

「ありがとう」

 紗奈は素直に礼を言った。以前の自分なら、「大丈夫だから」と遠慮していたかもしれない。でも今は、助けを借りることを、自然に受け入れられるようになっていた。


 その日の夜、悠真から電話がかかってきた。珍しいことだった。普段はメッセージのやり取りが多い二人だったから。

「もしもし」

「今日、どうだった」

 悠真の声は、少し緊張しているように聞こえた。紗奈は思わず笑ってしまった。

「なんで悠真がそんな緊張してるの」

「いや、だって。……気になるだろ、普通に」

「大丈夫だったよ。ちゃんと、教室入れた」

 紗奈は今日の出来事を、一つずつ話した。佐伯が席を空けてくれていたこと、教授の何気ない一言、学食での会話。悠真は相槌を打ちながら、静かに聞いていた。

「よかったな」

 電話の向こうで、悠真がぽつりと言った。その声には、安堵と、少しの誇らしさが混じっているように聞こえた。

「うん」

 紗奈は窓の外、暗くなった空を見上げながら答えた。

「今日から、また少しずつ」

「うん。少しずつでいい」

 電話越しの沈黙も、以前とは違う質感を持っていた。埋めなければいけない沈黙ではなく、そのままでいい沈黙。

 紗奈は電話を切った後も、しばらくスマホを握りしめたまま、ベッドに横になっていた。

 明日も、大学に行く。それだけのことが、今の紗奈にとっては、確かな一歩だった。