ベストフレンズ

 三月に入り、紗奈の生活には少しずつ「準備」という言葉が増えていった。

 教科書を買い直し、休学中に止めていた奨学金の手続きを再開し、下宿していたアパートの契約更新の連絡をする。ひとつひとつは小さな作業だったが、紗奈にとってはそのすべてが、「戻る」という実感を積み重ねる時間だった。

「一人暮らし、また始めるんだ」

 母が洗濯物を畳みながら、独り言のように呟いた。

「うん」

「心配じゃない、って言ったら嘘になるけど」

 母は手を止めて、紗奈を見た。

「今回は、ちゃんと言えるよね。“助けて”って」

 紗奈は少し間を置いてから、頷いた。

「うん。……たぶん、前よりは」

「たぶん、でいいよ」

 母はそう言って、また洗濯物に視線を戻した。その横顔に、紗奈は去年の夏、救急車を呼んだ夜の母の顔を思い出す。あの時の母は、今よりずっと小さく見えた。

(心配かけた分、ちゃんと生きて返さないと)

 そう思ってから、紗奈は小さく首を振った。

(違う。“返す”とかじゃない。ただ、ちゃんと生きたい、それだけでいい)


 同じ頃、悠真は大学で来年度の展示企画に誘われていた。写真展の講評で見せた「隣にいる、ということ」シリーズが、教授の目に留まったらしい。

「続編、作ってみないか」

 そう声をかけられた帰り道、悠真は河川敷に寄り道した。一年前、紗奈と何度も座ったベンチ。今は誰もいない場所に、悠真はひとりで腰を下ろした。

(続編、か)

 カメラを構えるでもなく、悠真はしばらくぼんやりと川を眺めた。あのシリーズは、答えの出ない一年間をそのまま写したものだった。今、また同じテーマで撮るとしたら、何を写せばいいのだろう。

(たぶん、まだ分からない。でも、分からないまま撮ればいい気がする)

 悠真はスマホを取り出し、河川敷の写真を一枚撮った。夕暮れ前の、まだ何色とも言えない空。それを紗奈に送った。

〈また今度、ここに一緒に来よう〉

 既読はすぐについた。

〈うん。約束〉

 短いやり取りだったが、悠真はそれで十分だと思った。


 三月の最後の週、恒一と玲奈も交えて、四人で久しぶりに集まった。ファミレスの席、紗奈が顔を出すのは半年ぶりのことだった。

「紗奈、元気そうじゃん」

 恒一が軽い調子で言うと、紗奈は笑った。

「元気、というか。……戻ってきた、って感じ」

「それでいいんだよ」

 玲奈が頷く。

「私も来年、写真の専門学校決まったんだ。紗奈が復学するの聞いて、なんか、私も頑張らなきゃって思った」

「玲奈がそう思ってくれるの、変な感じ」

紗奈が少し照れたように言うと、玲奈は真顔で首を振った。

「変じゃないよ。紗奈が戻ってくること、ちゃんと意味があることだから」

 四人での会話は途切れることなく続いた。誰も、あの夏の出来事を大げさに扱わなかった。ただ、それぞれの一年間の変化を、ゆっくりと分かち合った。

 帰り際、恒一が紗奈にだけ小さく声をかけた。

「無理すんなよ。前みたいに、一人で抱えんな」

「うん。……ありがとう、恒一」

「礼はいいから、また困ったら連絡しろよ。俺、暇だから」

 そう言って笑う恒一に、紗奈も釣られて笑った。



 三月三十一日。紗奈は荷物をまとめ、再びアパートへ戻る日を迎えた。

 玄関先で、母が紗奈の肩に軽く手を置いた。

「行ってらっしゃい」

 その言葉に、紗奈は一瞬、去年の春を思い出した。あの時も同じ言葉をかけられて、笑顔で家を出た。そして、うまくいかなくなった。

 だが今の紗奈は、あの時とは違う荷物を持っていた。「大丈夫」と言い続ける強さの代わりに、「大丈夫じゃない」と言える弱さを。

「行ってきます」

 紗奈はそう答えて、玄関を出た。

 明日から、新しい生活が始まる。窓の外では、桜のつぼみが、少しずつ膨らみ始めていた。