ベストフレンズ

 十二月半ば。空気が一段と冷たくなった朝、紗奈は縁側でノートを開いていた。

「戻りたい」

 その一言を母と悠真に伝えてから、一週間が経つ。言葉にした瞬間は、何かが軽くなったような気がした。けれど今は、その言葉の重さに少し押しつぶされそうになっている自分がいる。

(言っちゃった。もう、後には引けない)

そう思う自分と、

(別に、いつ戻ってもいいはずなのに)

そう思う自分が、同じ胸の中で揺れていた。


 クリニックの診察室。医師は紗奈の言葉を聞いたあと、しばらく黙ってから口を開いた。

「戻りたいって思えたこと、それ自体はいいことです」

「はい」

「でも、一つだけ覚えておいてほしいんですが」

 医師はカルテから顔を上げた。

「“戻ること”がゴールじゃないんですよ」

 紗奈は少し驚いた顔をした。

「大学に戻れたら、それで元通り──そう思ってしまう人は多いんです。でも、戻った瞬間にすべてが解決するわけじゃない。戻ってからも、波はあります。むしろ、戻ってからの方が、疲れやすいこともある」

「……じゃあ、戻らない方がいいってことですか」

「いいえ」

 医師は静かに首を振った。

「戻りたいと思えたなら、その気持ちを大事にしていい。ただ、“戻ればゴール”じゃなくて、“戻ってからも、続いていく”っていうことを、頭の隅に置いておいてほしいんです」

 紗奈はその言葉を、ノートの隅に書き留めた。

戻ることはゴールじゃない。

 家に帰ってからも、その一文がずっと頭に残っていた。


 その日の夜、悠真から写真が届いた。

 大学のアトリエらしき場所で、机の上に散らばったプリントと、コーヒーカップ。

〈今日、講評でボロクソに言われた〉
〈でも、なんか楽しかった〉

 紗奈は少し笑って、返信を打った。

〈ボロクソなのに楽しいの、悠真らしい〉

〈紗奈は?今日どうだった〉

 紗奈は少し迷ってから、正直に書くことにした。

〈「戻ることはゴールじゃない」って、先生に言われた〉
〈戻れたら全部うまくいく気がしてたけど、そうじゃないんだなって〉

 しばらく既読がついたまま、返信が来なかった。紗奈は少し不安になったが、五分後、悠真から返事が来た。

〈それ、聞けてよかったな〉
〈たぶん俺も、紗奈が戻ったら安心して、それで終わりだと思ってたところあった〉
〈でも違うんだよな。戻ってからも、一緒にいるんだよな〉

 紗奈はその文面を、何度も読み返した。

(この人は、いつも“終わり”にしようとしない)

 それが、安心なのか、少し怖いのか。紗奈自身にもまだ、よく分からなかった。


 十二月の終わり、家族三人での夕食の席。

 父が珍しく早く帰ってきて、鍋を囲んだ。湯気の向こうで、母が紗奈の茶碗にご飯をよそう。

「今年は、いろいろあったね」

 母がぽつりと言った。責めるでも、悲しむでもない、ただ事実を確かめるような声だった。

「うん」

 紗奈は短く答えた。

「でも、去年の今頃の紗奈と、今の紗奈、違う気がする」

「……どう違う?」

「去年は、“大丈夫”しか言わなかった。今は、たまに“大丈夫じゃない”って言えるようになった」

 母はそれだけ言って、また鍋に箸を伸ばした。父は何も言わず、ただ静かに頷いていた。

 紗奈は、湯気の向こうの二人の顔を見ながら、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。

(褒められてる、わけじゃない。でも、見てくれてる)

 それだけで、十分だった。


 年が明けて、一月。

 紗奈のノートには、こんな一文が増えていた。

「まだ、途中」

 戻ることも、治ることも、悠真との関係も。全部、まだ途中にある。

 それを「終わっていない」と焦る代わりに、「まだ途中でいい」と思えるようになったことが、この半年でいちばん変わったことなのかもしれない、と紗奈は思った。

 窓の外、まだ冷たい風が吹いていたが、その中に、ほんの少しだけ、春の匂いが混じり始めていた。