ベストフレンズ

 八月の終わり。

 夏休みが残り一週間になった頃、紗奈からメッセージが来た。

紗奈 10:14
今日、暇?

悠真 10:16


紗奈 10:16
図書館行かない?課題終わってないの

悠真 10:17
俺も終わってない

紗奈 10:17
じゃあ一緒に行こう
11時に駅前


 悠真はスマホを置いて、天井を見た。

 夏休みの間、紗奈と二人で出かけるのは久しぶりだった。海の日以来だから、三週間ぶりくらいになる。

 そのことが、なぜか少しだけ新鮮だった。



 駅前に着くと、紗奈がすでにいた。

 私服だった。薄い水色のシャツと、白いパンツ。髪を下ろしていた。学校にいる時とは少し違う印象だった。

「早い」と悠真が言った。

「悠真が遅い」

「一分しか遅れてない」

「待ってた」

「ごめん」

 紗奈は歩き出した。悠真がその隣に並んだ。

 いつもの距離。いつものリズム。

 でも──私服だからか、それとも久しぶりだからか、何かが少しだけいつもと違う気がした。

 気のせいかもしれなかった。



 図書館は駅から歩いて十分の場所にあった。

 二人はよく来ていた。テスト前の勉強、読書、課題。中学の頃からだから、五年以上通っている場所だった。

 入り口の自動ドアを抜けると、冷えた空気があった。本の匂いがした。悠真はこの匂いが好きだった。

 二人は奥の自習スペースに席を取った。窓際の二人掛けのテーブル。いつもここに座る。

 鞄を開けて、それぞれ課題を出した。

 紗奈は現代文の読書感想文。悠真は数学のプリントと、英語の長文。

「どっちが先に終わる賭けする?」と悠真が言った。

「しない。私が絶対早いから」

「なんで決めつけるの」

「毎回そうだから」

 反論できなかった。

 紗奈はシャープペンを持って、さっさと書き始めた。

 悠真も数学のプリントを開いた。


 一時間ほどが経った。

 紗奈は読書感想文を書き終えて、次の課題に移っていた。

 悠真は数学を半分まで終えて、止まっていた。

 止まっていたのは問題が分からないからではなく、頭が違うところに行っていたからだった。

 窓の外を見ていた。

 夏の終わりの空だった。入道雲がまだあったが、輪郭が少し甘くなっていた。秋の気配が始まっている空だった。

「手止まってる」と紗奈が言った。

「考えてた」

「数学を?」

「違うことを」

「何を」

「夏が終わるな、と思って」

 紗奈はシャープペンを置いた。悠真と同じように窓の外を見た。

「そうだね」と紗奈は言った。

「あっという間だった」

「毎年そう言ってるよね、悠真」

「毎年そう感じるから」

「来年の夏は受験だから、もっとあっという間かもしれない」

「それは考えたくない」

 紗奈は少し笑った。

 窓の外の雲が、ゆっくり動いていた。

「悠真」と紗奈が言った。

「うん」

「今年の夏、どうだった?」

 漠然とした質問だった。

 悠真はしばらく考えた。

「いろいろあった気がする」

「例えば?」

「合宿とか。橘さんが来たこととか」

「橘さんが来たことは、悠真にとってどういうことだった?」

 また、橘さんの話だった。

 紗奈が玲奈のことを話題にするのは、これで何度目になるか。毎回、何気ない口調で、でも少しだけ探るような感じで聞いてくる。

「話せる人が増えた、という感じかな」と悠真は言った。「写真の話を分かってくれる人が、部以外にもできた」

「それは良かったね」

「うん」

 紗奈はシャープペンをくるくると回した。考えている時の癖だった。

「朝比奈くん」と紗奈が言った。

 名前の呼び方が変わった。

 悠真、ではなく、朝比奈くん。

 紗奈がそう呼ぶのは珍しかった。ふざけている時か、真剣な話をする時か、どちらかだった。

「なんか改まってる」と悠真が言った。

「ちょっと聞きたいことがあって」

「どうぞ」

 紗奈は机の上を見ていた。悠真の方を向かなかった。

「悠真にとって、私ってどういう存在?」

 図書館の静けさが、急に際立った。

 遠くで誰かがページをめくる音がした。空調の音がした。

 悠真は紗奈を見た。

 紗奈はまだ机を見ていた。

「どういう存在、って」と悠真は言った。「急にどうしたの」

「急じゃないよ」と紗奈は言った。「ずっと考えてた」

「ずっと?」

「夏休みの間、ずっと」

 悠真は返す言葉を探した。

 どういう存在か。

 親友。幼なじみ。大切な人。一番近い人。

 どれも正しくて、どれも足りない気がした。

「大事な人、だよ」と悠真は言った。

「それは分かってる」と紗奈は言った。「そういうことを聞きたいんじゃなくて」

「じゃあ、どういうことを」

「……友達として大事なのか、それとも」

 紗奈はそこで止まった。

 続きを言わなかった。

 言えなかったのか、言いたくなかったのか、悠真には分からなかった。

 悠真も続きを促せなかった。

 促したら──何かが決まってしまう気がして。

「それとも、なんだよ」と悠真は言った。

 自分で言いながら、声が少し低くなったことに気づいた。

 紗奈はシャープペンを止めた。

 窓の外を見た。

「……なんでもない」と紗奈は言った。

「なんでもなくないだろ」

「なんでもない」

 繰り返した。今度はもう少し、声が小さかった。

 悠真は紗奈の横顔を見た。

 耳が少し赤かった。

 夏の日差しのせいかもしれなかった。

 でも図書館の中に日差しはなかった。



 それ以上、その話はしなかった。

 二人とも課題に戻った。

 でも空気が少し変わっていた。変わった、というより──それまであった薄い膜が、少しだけ破れた感じがした。

 破れたけれど、そこから何かが出てきたわけではない。ただ破れた穴が、そこにある。

 三十分ほどして、紗奈が「休憩しよう」と言った。

「外出る?」と悠真が聞いた。

「コンビニ行きたい。アイス食べたい」

「じゃあ行こう」



 図書館の隣にコンビニがあった。

 二人でアイスを選んだ。紗奈はいつもガリガリ君を選ぶ。悠真はその日の気分によって変わる。

 今日はチョコバーにした。

 外のベンチに座って食べた。

 駐車場の向こうに、夏の空があった。さっきより雲が増えていた。

「アイス、おいしい」と紗奈が言った。

「おいしいね」

「夏の終わりにアイス食べるの、毎年やってるね」

「そう?」

「中一の夏休みから、毎年終わりにここでアイス食べてる」

「覚えてるんだ」

「覚えてるよ」と紗奈は言った。少し不満そうな口調で。「悠真が覚えてないだけで」

「そういうこと、よく覚えてるよな、紗奈は」

「大事なことだから」

「大事?」

「悠真との時間は大事だよ」と紗奈は言った。それからすぐ、「友達としての話ね」と付け加えた。

 友達として。

 自分で注釈をつけた。

 悠真はアイスを一口食べた。

 その注釈が、なぜ必要だったのか。

 紗奈自身が一番、分かっているはずだった。

「紗奈」と悠真は言った。

「うん」

「さっきの話の続き、しなくていいの?」

 紗奈はガリガリ君をかじった。

 しばらく何も言わなかった。

「今は、しなくていい」と紗奈は言った。

「なんで」

「怖いから」

 それだけだった。

 理由の説明はなかった。でも悠真には、分かった。

 怖い。

 それは自分も同じだった。

 踏み込んだら変わる。変わったら失うかもしれない。

 だから怖い。

「分かった」と悠真は言った。

「……うん」

 また静かになった。

 でもさっきの沈黙とは違った。これは、お互いの怖さを確認し合った後の静けさだった。

 悪くなかった。



 図書館に戻って、課題を終わらせた。

 紗奈が先に全部終わった。

「ほら、早かった」と紗奈が言った。

「認める」と悠真は言った。

「素直」

「負けは負けだから」

 紗奈は荷物をまとめながら、「待ってるよ」と言った。

「あと十分くらいで終わる」

「いいよ、急がなくて」

 紗奈は悠真が課題を終えるのを、隣で本を読みながら待った。

 それが自然だった。

 急かさない。でも待つ。

 そういう人だった、ずっと。



 帰り道。

 川沿いの道を歩いた。

 この道を二人で歩くのも、何百回目か分からない。小学生の頃から歩いている道だった。

 夏の夕方の川は、光が柔らかかった。

 悠真はカメラを持ってきていなかった。でも写真を撮りたい光だと思った。

「またそういう顔してる」と紗奈が言った。

「そういう顔?」

「写真撮りたそうな顔」

「よく分かるな」

「分かるよ、十年以上見てるから」

 十年以上。

 その言葉を悠真は心の中で繰り返した。

 十年以上、隣にいた。

 それがどれほどのことか、当たり前になりすぎて、感じなくなっていた。

「なあ」と悠真は言った。

「うん」

「紗奈って、十年後も同じように隣にいると思う?」

 紗奈は少し驚いたような間を置いた。

「急にどうしたの」

「なんとなく」

「なんとなく、そういうこと聞くの?」

「聞きたくなった」

 紗奈は川を見た。

 水面が夕日を受けて、ゆらゆらと光っていた。

「分からない」と紗奈は言った。「十年後のことは」

「そうだな」

「でも」と紗奈は続けた。「隣にいたいとは思ってる」

 悠真は紗奈を見た。

 紗奈はまだ川を見ていた。

「俺も」と悠真は言った。

 紗奈が悠真を見た。

 夕日の光が横から当たっていた。

 二人は少しの間、お互いを見た。

 どちらかが何かを言えば、何かが動いたかもしれなかった。

 でもどちらも言わなかった。

 言えなかった、と言う方が正確だった。

 紗奈が先に視線を外した。川に戻した。

「帰ろう」と紗奈が言った。

「うん」と悠真は言った。



 分かれ道で別れた。

 「また明日」と言って、「うん、また明日」と返って、それで終わりだった。

 悠真は帰りながら、今日のことを整理しようとした。

 でも整理できなかった。

 紗奈が言いかけて止めた言葉。

 耳の赤さ。

 怖いから、という理由。

 川沿いで交わした、十年後の話。

 どれも、答えのない形で頭の中に残っていた。

 ただ一つ、分かったことがあった。

 紗奈の中にも、自分と同じものがある。

 名前をつけることを恐れている感情が。

 それが何なのかは──二人ともまだ、認めていない。

 でも確かにそこにある。

 それだけは、今日初めてはっきりと分かった。



 家に帰って、ベッドに横になった。

 スマホに通知が来た。


紗奈 18:47
今日ありがとう


 短いメッセージだった。

 ありがとう、の意味が何に対してなのか、書いていなかった。

 課題が終わったこと? 一緒にいてくれたこと? それとも──何も聞かずにいてくれたこと?


悠真 18:49
こちらこそ


 悠真も同じくらい短く返した。

 既読がついた。返信は来なかった。

 それでよかった。

 今夜は、それだけでよかった。



 夏が終わろうとしていた。

 入道雲が少しずつ形を変えて、空が高くなっていく季節。

 悠真と紗奈の間にあるものは、まだ名前を持っていなかった。

 でも確かに、育っていた。

 名前のないまま、静かに、着実に。