ベストフレンズ

 十一月中旬。

 紗奈の中に、 小さな波が戻ってきた。



 朝、 母親が部屋を覗くと、 紗奈はカーテンを閉めたまま、 布団の中にいた。

「……ご飯は?」

「今日は、 いらない」

 その声には、 数週間前の暗さが、 少しだけ戻っていた。



 母親は、 何も聞かずに、 静かにドアを閉める。

 以前なら、 心配で何度も声をかけていたかもしれない。

 だが今は、 波があることを、 母親自身も少しずつ理解していた。


 紗奈は、 天井を見つめたまま、 動けずにいた。

 理由は、 自分でもよく分からなかった。

 昨日までは、 少しずつ前に進んでいる気がしていたのに。

『なんで、 また戻るんだろう』

 ノートに、 そう書きかけて、 手が止まる。

 「また」という言葉に、 自分自身が引っかかっていた。



 戻ったわけじゃない。

 分かっているはずなのに、 気持ちが追いつかない。

 回復は、 まっすぐな線ではないと、 医師にも言われていたはずだった。


 昼過ぎ、 悠真からメッセージが届く。

『今日、 会える?』

 紗奈は、 しばらく画面を見つめたまま、 返信できずにいた。


 いつもなら、 「うん」と返していた。

 だが今日は、 その一文字を打つことすら、 億劫だった。


 数分後、 ようやく指を動かす。

『今日は、 ちょっと、 難しいかも』

『ごめん』

 送信した後、 紗奈は少し後悔した。

 謝る必要なんて、 ないと分かっているのに。



 悠真からの返信は、 すぐに来た。

『分かった』

『無理しないで』

『また、 大丈夫なときでいいから』


 その言葉に、 紗奈は少しだけ、 息がしやすくなる。

 だが同時に、 罪悪感も残っていた。

『また、 心配させてる』

 その考えが、 頭から離れなかった。



 夕方、 母親が夕食を部屋まで運んでくる。

 「食べられそうなら、 少しだけでも」

 紗奈は、 しばらくそれを見つめていたが、 やがてスプーンを手に取る。

 ひと口。 それだけで、 十分だった。



 夜、 紗奈はノートを開く。

 何も書けないまま、 ページを見つめる時間が続いた。



 やがて、 短い言葉だけを書き込む。

『今日は、 動けなかった』

『それだけ』

『それだけでいい、 と思いたい』


 翌日、 悠真から写真が一枚届く。

 夕焼けでも、 花でもない。

 ただの、 曇り空の写真だった。


 『今日は、 曇り』

 短いメッセージが添えられていた。



 紗奈は、 その写真をしばらく見つめる。

 きれいでも、 特別でもない、 何気ない空。

 だがその何気なさに、 なぜか安心する自分がいた。

『晴れなくてもいい日、 なんだね』

 紗奈は、 そう返信する。


『うん』

 悠真からの返事は、 短かった。

『曇りの日も、 ちゃんとある』

『それでいいと思う』



 その言葉に、 紗奈は少し、 涙がこぼれる。

 悲しいからではなかった。

 ただ、 「揺り戻しがあってもいい」と、 誰かに言ってもらえたことが、 嬉しかった。



 二日後、 紗奈は少しずつ、 起き上がれるようになる。

 大きな変化ではなかった。

 ただ、 カーテンを開けることができた。

 それだけの、 小さな一歩だった。



「おはよう」

 母親に、 自分から声をかける。

「おはよう」

 母親は、 いつもと変わらない声で返す。



 その日の夜、 紗奈はノートに、 少し長い文章を書いた。

『波があるのは、 悪いことじゃないって、 分かってるつもりだった』

『でも、 実際に波が来ると、 やっぱり怖い』

『"また戻った"って、 思っちゃう』

『でも──』

『戻ったんじゃなくて、 波が来ただけ』

『それを、 ちゃんと分けて考えられるようになりたい』



 窓の外、 冬の気配を含んだ風が吹いていた。

 紗奈は、 ノートを閉じ、 小さく息を吐く。

「……また、 明日」

 その言葉には、 諦めではなく、 確かな続きへの意志が、 込められていた。