ベストフレンズ

 十月に入り、 朝晩の空気が少し冷たくなってきた。

 紗奈の療養生活にも、 小さな変化が増えていく。


 その日、 悠真が久しぶりに家を訪ねてきた。

 玄関先で、 紗奈は少し緊張した面持ちで迎える。

「……いらっしゃい」

「うん」

 短いやり取りだったが、 以前のような重さはなかった。


 縁側に並んで座る二人。

 悠真はカメラを持ってきていた。

「今日、 撮ってもいい?」

 紗奈は少し戸惑った顔をする。

「……今の私、 あんまり良くないと思うけど」

「良くなくていいよ」

 悠真は静かに答える。

「今の紗奈を、 撮りたいだけだから」


 紗奈はしばらく黙っていたが、 やがて小さく頷いた。

 シャッター音が、 静かな午後に響く。

 写真の中の紗奈は、 微笑んでいるわけではなかった。

 だが、 どこか穏やかな表情をしていた。


「見せて」

 紗奈が言うと、 悠真は画面を見せる。

「……こんな顔、 してるんだ、 私」

「うん」

「悪くない、 かも」

 紗奈の声に、 わずかな驚きが混じっていた。


 しばらく、 二人は無言で庭を眺めていた。

 風が吹き、 落ち葉が舞う。

 紗奈がふと、 悠真の手に自分の手を重ねる。

 小さな仕草だった。

 だが、 それは紗奈から初めて示した、 触れたいという気持ちだった。


 悠真は驚いたが、 何も言わずに、 その手を握り返す。

「……こういうの、 まだ大丈夫か、 分からなかった」

 紗奈がぽつりと言う。

「触れることも、 触れられることも、 なんか、 怖かった」


「無理しなくていいよ」

 悠真が言うと、 紗奈は首を振る。

「無理じゃない。 今は、 大丈夫」

「悠真になら、 大丈夫って思えた」


 その言葉に、 悠真は胸が熱くなる。

 以前なら、 「頑張って克服した」ように聞こえたかもしれない。

 だが今の紗奈の言葉は、 違っていた。

 無理をしているのではなく、 少しずつ、 自然に取り戻している。

 その違いを、 悠真は理解できるようになっていた。


「大学、 どう?」

 紗奈が、 ふと尋ねる。

 悠真は少し驚いた。

 紗奈から、 自分以外の話題を聞かれたのは、 久しぶりだった。


「写真サークル、 楽しいよ」

「文化祭のシリーズ、 先輩に褒められた」

 悠真は、 淡々と近況を話す。

 紗奈は、 静かに耳を傾けていた。

「……いいな」

 小さな呟き。

「羨ましい、 とかじゃなくて。 ただ、 いいなって思った」



「戻りたい、 って思う?」

 悠真が、 慎重に尋ねる。

 紗奈は少し考えてから、 答える。

「分からない。 まだ、 怖い」

「でも──」

「いつか、 戻りたいとは、 思う」


 その言葉は、 まだ小さく、 不確かなものだった。

 だが、 確かに紗奈の中に芽生え始めていた気持ちだった。

 悠真は、 それ以上何も聞かず、 ただ頷いた。



 日が傾き始め、 縁側にオレンジ色の光が差し込む。

 紗奈は、 悠真の肩に少しだけ、 頭をもたせかける。

「……このくらいなら、 いいよね」

「うん」

「もちろん」


 二人は、 しばらくそのまま、 何も言わずに座っていた。

 言葉より、 その距離感が、 何よりも雄弁だった。



 悠真が帰り際、 紗奈が玄関先で言う。

「また、 来てくれる?」

「もちろん」

「写真、 また撮ってくれる?」

「うん」

「今の私も、 悪くないって、 思えるように」


 紗奈の言葉に、 悠真は微笑む。

「今の紗奈が、 一番好きだよ」

 紗奈は少し照れたように、 目を逸らす。

「……そういうの、 まだ慣れない」

「ゆっくりでいいよ」

「うん」



 悠真が帰った後、 紗奈はノートを開く。

『今日、 悠真に手を重ねた』

『怖くなかった』

『"戻りたい"って、 初めて思えた』

『少しだけ』

 小さな一歩。

 けれど、 確かな一歩だった。