ベストフレンズ

 実家の自室。

 紗奈は朝、 カーテンの隙間から差し込む光で目を覚ます。

 以前は、 光がまぶしいと感じることすら、 なかった気がする。

 ただ、 時間だけが過ぎていく感覚。



 母親が、 静かにドアをノックする。

「ご飯、 食べられそう?」

「……少しなら」

 以前の紗奈なら、 「大丈夫」と答えていた。

 食べられなくても、 食べられると答えていた。

 今は、 「少しなら」と言える。

 その違いを、 母親は何も言わずに受け止めてくれる。


 朝食は、 白米と味噌汁だけ。

 半分も食べられなかったけれど、 残すことを、 もう責めなくていいのだと、 紗奈は少しずつ覚えていく。

「無理しなくていいから」

 母親の言葉に、 紗奈は小さく頷く。


 午前中は、 ほとんど眠って過ごす。

 眠ることしかできない日もあれば、 何もできずにただ天井を見ている日もある。

 以前は、 「何もできない自分」を責めていた。

 今は、 その日をただ、 過ごすことにしている。



 週に一度、 クリニックへ通う。

 医師との会話は、 短い。

「眠れていますか」

「食べられていますか」

「はい」「少しだけ」

 その繰り返しだったが、 紗奈にとっては、 数少ない「話せる場所」だった。



「頑張らなくていいですよ」

 医師が、 いつも同じ言葉を言う。

 最初は、 その言葉の意味が分からなかった。

 頑張らないことに、 罪悪感を覚えていた。

 だが今は、 少しだけ、 その言葉を信じられるようになっている。



 午後、 縁側で日向ぼっこをすることが増えた。

 何をするでもなく、 ただ庭を眺める時間。

 以前の紗奈は、 「意味のない時間」を嫌っていた。

勉強、 予定、 目標──

 常に何かで埋めていないと、 不安だった。



 今は違う。

 意味のない時間が、 少しずつ、 意味を持ち始めている。

 蝉の声。 風の音。 猫が塀を歩く音。

 そんな小さなことに、 気づけるようになっていく。

 夕方、 悠真から短いメッセージが届く。

『今日、 空きれいだった』

 写真が一枚。

 夕焼けに染まる空だった。

 紗奈はしばらく、 その写真を見つめる。

 返信は、 まだ言葉にならないことが多い。

『きれい』

 一言だけ、 打ち込む。

 それだけで、 十分だった。

 以前のように、 「ちゃんと返さなきゃ」という焦りは、 少しずつ薄れていた。

 夜、 眠れない日もある。

 そんなとき、 紗奈はノートを開く。

 医師に勧められた、 「言葉にならないことを、 無理に言葉にしなくていい」ノート。

 殴り書きのような文字。 途中で止まる文章。

 それでも、 何かを書き残すことが、 少しずつできるようになっていた。

『今日は、 ご飯を半分食べられた』

『縁側で、 猫を見た』

『悠真の写真、 きれいだった』

 小さなことばかりだったが、 それは確かに、 紗奈が一日を"生きた"証だった。

 ある日、 母親が言う。

「紗奈、 前より、 顔色いいよ」

 紗奈は鏡を見る。

 以前より、 頬に少し赤みが戻っている気がした。

「……そう、 かな」

「うん」

 母親は静かに微笑む。

「ゆっくりでいいからね」

 佐伯からも、 時々メッセージが届く。

『無理に返信しなくていいから』

『ゼミ、 変わらず、 のんびりやってるよ』

 大学の日常が、 遠くにありながらも、 少しずつ紗奈の中に戻ってきていた。

 九月の終わり、 紗奈は久しぶりに、 一人で近所を歩いてみる。

 短い距離。 それでも、 外の空気を吸うことができた。

 帰り道、 コンビニでアイスを買う。

 以前なら、 「甘いものは太る」と我慢していた。

 今日は、 ただ食べたいと思って、 買った。

 縁側で食べるアイスは、 少し溶けかけていたけれど、 美味しかった。

「美味しい」

 誰に言うでもなく、 紗奈は呟く。

 その一言が、 自分の中から自然に出てきたことに、 紗奈は少し驚く。

 夜、 ノートに書き込む。

『今日、 一人で近所を歩けた』

『アイスを食べた。 美味しかった』

『"美味しい"って、 自然に思えた』

 小さな一日。

 けれど、 確かに前へ進んでいる一日だった。