ベストフレンズ

 夏休みが始まった。

 最初の数日は、開放感というより虚脱感に近かった。毎朝決まった時間に起きて、決まった場所へ行くという構造が消えると、一日の輪郭がぼやける。悠真はそういう感覚が、毎年夏休みの最初にあった。

 三日目くらいから慣れる。慣れたら慣れたで、終わりが惜しくなる。夏休みとはそういうものだと、悠真は思っていた。


 七月の終わり。

 写真部の合宿があった。

 といっても大げさなものではない。顧問の田辺先生が所有する山間の古民家を毎年借りて、二泊三日で撮影をする。発表会もコンペもない。ただ撮る。それだけの合宿だった。

 参加者は西川さんと、三年の先輩が二人と、悠真と玲奈。五人だった。

 他の一年生部員は都合がつかなかった。

 結果的に、悠真と玲奈が同学年で参加する形になった。



 古民家は山の中腹にあった。

 最寄り駅からバスで三十分。バス停から徒歩二十分。周囲に民家はなく、川の音と蝉の声だけが聞こえる場所だった。

 建物は古かったが、手入れされていた。縁側から山が見えた。

 悠真は荷物を置いて、すぐにカメラを持って外に出た。

 光が違った。

 都市の光は硬い。ビルや舗装道路に反射して、角が立っている。でもここの光は柔らかかった。木の葉を通り抜けて、散乱して、どこから来ているのか分からないような光だった。

 悠真は夢中で撮った。



 一日目の夕方。

 縁側で玲奈が一人、フィルムカメラを抱えて座っていた。

 撮っているのではなく、ただ山を見ていた。

「撮らないんですか」と悠真が言った。

「さっきまで撮ってました」と玲奈は答えた。「フィルムが終わったので」

「何本持ってきたんですか」

「三本。全部使いました」

「一日で?」

「ここは撮りたいものが多くて」

 悠真は玲奈の隣に座った。縁側の木が少し軋んだ。

 山の稜線が夕日に染まっていた。オレンジの光が木の葉を透かして、緑がいくつもの色に見えた。

「撮らなくていいんですか」と玲奈が聞いた。

「今は目で見てます」

「今日は目で見る日?」

「そうなりました」

 玲奈は少し笑って、山を見た。

「きれいですね」

「きれいですね」

 同じ言葉を繰り返した。でも変な感じはしなかった。

 しばらく黙って景色を見ていた。

 遠くで鳥の声がした。川の音が下の方から聞こえてきた。

「橘さんって」と悠真は言った。「こういう場所、好きですか」

「好きです。静かなので」

「東京は静かじゃないですか」

「東京もいい場所ですよ。でも騒がしい静けさというか」

「騒がしい静けさ?」

「人がたくさんいるのに、誰も自分のことを見ていない感じ」と玲奈は言った。「それはそれで静かなんですけど、でも本当の静けさとは違う」

「ここは本当の静けさですか」

「そう思います」

 悠真は山を見た。

「橘さんって、東京に戻りたいと思いますか」

 玲奈は少し考えた。

「分からないです。戻りたい場所、というより──戻る場所、という感じで」

「どう違うんですか」

「行きたくて行く場所と、行かないといけない場所の違いみたいな」と玲奈は言った。「東京には友達がいるから、会いたい人がいるから戻る。でも今ここにいるのが嫌かというと、全然そうじゃない」

「今ここは、どちらですか」

「来たくて来た場所です」

 悠真はその答えが、なんとなく嬉しかった。



 夜、先輩たちとテーブルを囲んで話した。

 西川さんが持ってきた柿の種を食べながら、撮影の話や、カメラの話や、まったく関係ない話をした。

 気づいたら日付が変わっていた。

 先輩たちが先に寝て、悠真と玲奈が残った。

 テーブルの上に柿の種の袋と、麦茶のコップがあった。

「眠くないですか」と悠真が聞いた。

「少しだけ」と玲奈は言った。「でももう少し起きていたい」

「なんで」

「こういう夜は、あんまりないので」

 悠真は麦茶を飲んだ。

 窓の外は真っ暗だった。都会と違って、本当に真っ暗だった。星が見えた。こんなに星があったのかと思うくらい、たくさん見えた。

「星、きれいですね」と玲奈が言った。

「写真撮りますか」

「フィルム、もう終わってるんです」

「あ、そうか」

「悠真くんは撮らないんですか」

「夜の星は難しくて、俺の腕では」

「言い訳ですか」

「半分は言い訳です」

 玲奈は窓の外を見たまま言った。

「柊さんとは、毎日連絡してますか」

 唐突な話題だった。でも玲奈が唐突に核心を突いてくることには、悠真も少し慣れてきていた。

「してますね」

「向こうから来ますか、こっちから行きますか」

「半々くらい」

「この合宿の間も?」

「昨日も今日もしました」

「何を話したんですか」

「今日は何してたか、とか。大したことじゃないです」

「大したことじゃないことを、毎日話せる関係なんですね」

 悠真は少し考えた。

「そうですね。特別なことより、何でもない話の方が多いかもしれない」

「それって」と玲奈は言った。「すごく近い関係だと思います」

「近いですね。昔から近い」

「近すぎて、分からなくなってる部分もあると思いますか」

「……あると思います」

「どのあたりが」

「どこからが友情で、どこからが恋愛か、という線引きが」

 玲奈は窓から悠真に視線を移した。

「朝比奈くんは、それを決めたいですか」

「決めた方がいいとは思ってます」

「でも決めたくない?」

「決めることで、何かが変わるのが怖い」

「さっき言ってたこと、また言ってますね」と玲奈は言った。穏やかな口調だった。

「同じところをぐるぐるしてるんですよね、俺」

「それはたぶん、まだその時じゃないんだと思います」

「時?」

「踏み込む時。まだ来てないから、ぐるぐるしてるんじゃないですか」

 悠真はその言葉を少し考えた。

「橘さんって、こういうこと、よく考えるんですか」

「人のことは考えます。自分のことは、あんまり」

「なんで」

「自分のことは、考えても変わらないことが多いので」と玲奈は言った。「でも人のことを考えるのは、面白いから」

「面白い?」

「人の感情って、ちゃんと理由があるんですよね。どんな感情にも。それを想像するのが、昔から好きで」

 悠真は玲奈を見た。

「橘さん自身の感情には、理由がありますか」

 玲奈は少し間を置いた。

「あります」

「どんな」

「今は言わないです」と玲奈は言った。はっきりと、でも嫌な感じなく。

「そうですか」

「そのうち、言えるかもしれないです」

「待ちます」

「待たなくていいですよ」と玲奈は笑った。「重くなるから」

 悠真も笑った。

 夜の山は静かだった。星が動かないまま、そこにあった。


 合宿二日目。

 悠真は朝から川沿いを撮り歩いた。

 昼過ぎに古民家に戻ると、玲奈が縁側で手紙を書いていた。

「手紙ですか」と悠真が言った。

「東京の友達に」と玲奈は答えた。「手紙の方が、ちゃんと伝わる気がして」

「LINEじゃなくて?」

「LINEで伝えられることと、手紙で伝えられることは違うと思います」

 悠真は縁側の柱に寄りかかって、玲奈が手紙を書く様子を見た。

「東京の友達、大切なんですね」

「大切です」と玲奈は言った。「でも会えない。だから手紙を書く」

「会えないのは辛くないですか」

「辛くないといえば嘘ですけど」と玲奈は言った。「会えなくても、その人との時間は消えないから」

「消えない?」

「一緒にいた時間は、ちゃんと自分の中に残ってます。それが消えない限り、その人のことは近いと思えるので」

 悠真はその言葉を聞きながら、紗奈のことを考えていた。

 十年以上の時間が、自分の中にある。紗奈との朝の登校、昼飯、放課後、電話。全部が積み重なって今になっている。

 それは確かに、消えない。

 消えないからこそ──失うことが怖い。



 合宿三日目。

 帰る日だった。

 片付けをして、荷物をまとめた。

 バス停まで歩く道で、玲奈が言った。

「この合宿、来てよかったです」

「よかった」と悠真は言った。

「朝比奈くんと、ゆっくり話せたので」

「写真の話、たくさんできましたね」

「写真の話だけじゃないですけど」と玲奈は言って、少し笑った。

 バスが来た。

 五人で乗り込んで、山を下りた。

 家に帰ったのは夕方だった。

 荷物を置いて、シャワーを浴びて、ベッドに横になった。

 スマホを見ると、紗奈から連絡が来ていた。


紗奈 17:43
帰った?

悠真 18:21
今帰った。疲れた

紗奈 18:21
お疲れ。どうだった?

悠真 18:22
よかった。光が全然違って、撮りやすかった

紗奈 18:22
写真見せて

悠真 18:23
後でね

紗奈 18:23
今日暇?


 悠真は少し考えた。


悠真 18:23
暇だけど疲れてる

紗奈 18:24
じゃあ電話する?

悠真 18:24
する


 三十秒後に着信が来た。

「お帰り」と紗奈が言った。

「ただいま」

「疲れてる声してる」

「三日間、山の中にいたから」

「楽しかった?」

「楽しかった」と悠真は言った。「橘さんとも、いろいろ話せたし」

 少しの沈黙があった。

「そっか」と紗奈は言った。

 その「そっか」が、どういう温度なのか、悠真には分からなかった。

「紗奈は? 三日間、何してた?」

「勉強と、あと友達と出かけたり」

「充実してるじゃないか」

「まあね」

 また少しの間があった。

「悠真」と紗奈が言った。

「うん」

「合宿、楽しかったならよかった」

「……ありがとう」

「なんでお礼言うの」

「なんとなく」

 紗奈が小さく笑った。

「おかえり」

「ただいま」

 また言った。さっきと同じ言葉だった。でも今度の方が、少しだけ声が柔らかかった。



 その夜。

 電話をしながら、悠真は今日撮った写真を見返した。

 川の光、山の木々、古民家の縁側──。

 その中に一枚、玲奈を撮った写真があった。

 合宿初日の夕方、縁側で山を見ていた玲奈。気づかないうちにシャッターを切っていた。

 きれいな写真だった。光も構図も悪くない。

 けれど──以前玲奈が言っていた通り、遠い写真だった。

 被写体との距離が、画面の向こうに出ていた。

 悠真はその写真を見てから、別のフォルダを開いた。

 以前撮った紗奈の写真。

 コンビニの前で財布を探している後ろ姿。

 比べた。

 どちらが近いか。

 一目で分かった。

 距離が違った。レンズの焦点距離じゃなくて、撮った人間の、被写体への距離が。

 (俺は橘さんに踏み込めていない)

 それは写真の話だった。

 でも──写真の話だけじゃないことも、悠真には分かっていた。

 電話の向こうで、紗奈が「眠くなってきた」と言った。

「切る?」と悠真が聞いた。

「もう少し」と紗奈は言った。

「眠いのに?」

「声聞いてたい」

 悠真は何も言わなかった。

 何も言えなかった。

 電話の向こうで、紗奈が静かに息をしている音がした。

 それを聞きながら、悠真は写真を閉じた。

 考えることを、今夜はやめた。

 ただ、紗奈の声を聞いていた。