ベストフレンズ

 八月に入ると、紗奈の部屋のカーテンは、ほとんど開けられることがなくなっていた。

 時間の感覚は、もはや意味をなさなくなっていた。朝も昼も夜も、同じような薄暗さの中に溶けていく。スマホの画面だけが、外の世界と繋がる唯一の光だった。だが、その画面を開くことさえ、日に日に難しくなっていった。

 通知は溜まっていく。母親から、悠真から、佐伯から。最初のうちは、既読だけはつけていた。既読をつけないと、もっと心配されるという計算が、かろうじて紗奈を動かしていた。

 だが、その計算をする力さえ、少しずつ失われていった。

「元気にしてる?」

「今度ご飯行こうよ」

「レポートの件、大丈夫だった?」

 文字は目に入る。だが、それに対して何を返せばいいのか、頭の中で言葉が組み立てられない。返信を考えようとすると、途中で思考がぷつりと途切れる。まるで、糸が短すぎて、結び目まで届かないような感覚だった。

(返さなきゃ)

 分かっている。分かっているのに、指がスマホに触れる直前で止まってしまう。その状態が、何時間も続くこともあった。

 母親からの電話は、次第に出られなくなっていった。呼び出し音が鳴るたびに、紗奈は布団の中で体を丸めた。出れば、何か聞かれる。何か答えなければならない。その一連の流れを想像するだけで、胸の奥が締めつけられた。

(心配かけてる。分かってる。でも、出られない)

 罪悪感と、動けないことへの無力感が、交互に押し寄せてきた。どちらも紗奈を追い詰めるだけで、どちらも紗奈を動かす力にはならなかった。

 食事は、一日にコンビニのおにぎり半分ほどになっていた。空腹という感覚自体が、遠のいていた。味もあまり感じなかった。ただ、生きるために最低限、何かを口に入れているという、義務のような行為だった。

 鏡を見ることも減っていた。たまに目に入る自分の顔は、どこか他人のもののように見えた。

(私、誰だったっけ)

 そんな、輪郭を失うような感覚が、ふとした瞬間に紗奈を襲った。

 悠真からのメッセージは、まだ続いていた。頻度は減っていたが、途切れることはなかった。

「紗奈、最近連絡少ないけど、元気にしてる?」

「心配してるよ。返事だけでもくれると嬉しい」

 紗奈はその文字を、何度も何度も読み返した。悠真の優しさが、そこには確かにあった。だが今の紗奈には、その優しさを受け取るための器が、どこにも見当たらなかった。

(迷惑かけてる)

(返事もできない自分、最低だ)

(でも、何て返せばいいか、分からない)

(「大丈夫」って、もう噓すら、うまくつけない)

 指がスマホの画面に触れる。文字を打とうとする。だが、どんな言葉も、今の自分から遠すぎるように感じられた。「大丈夫」も「疲れてる」も「頑張ってる」も、すべてが、もう自分のものではない言葉のように思えた。

 結局、その日も、紗奈は何も送れなかった。

 夜、天井を見つめながら、紗奈はぼんやりと考えていた。

(このまま、消えてしまえたら)

(誰にも迷惑をかけずに)

(誰も、悲しませずに)

 その考えは、以前のように鋭い痛みを伴わなかった。むしろ、静かで、凪いだ水面のように、紗奈の中に横たわっていた。それが、かえって怖いことだと気づく力すら、もう残っていなかった。

 窓の外で、蝉の声が遠くに聞こえていた。夏の盛りだというのに、その音は、紗奈にはひどく遠い世界の音のように感じられた。

 数日後、紗奈のスマホの通知は、誰からも気づかれないまま、ただ静かに積み重なっていった。