ベストフレンズ

 七月に入ると、大学は本格的な試験期間に突入した。

 紗奈の部屋の机には、開いたままのノートと参考書が積まれていた。だが、そのページは何日も同じ場所で止まっていた。

 朝、目覚ましが鳴る。止める。もう一度鳴る。その繰り返しの中で、紗奈は「起きなければ」という意識と、「起きられない」という体の重さの間で、何度も引き裂かれていた。結局、大学へ行く時間はとうに過ぎ、紗奈はそのまま布団の中にいた。

(今日も、休んでしまった)

 罪悪感が、胸の奥にじわりと広がる。だがその罪悪感でさえ、体を動かす力にはならなかった。分かっているのに動けないという状態が、紗奈にとって一番苦しいことだった。

 昼過ぎ、ようやく起き上がる。部屋の中は薄暗い。カーテンを開ける気力もなく、電気だけをつけた。冷蔵庫を開けても、何も食べたいと思わなかった。空腹は感じているはずなのに、それを満たしたいという欲求とうまく繋がらない。結局、水を一杯飲んで、また机に座った。

 パソコンを開く。レポートの締め切りは、あと三日。白紙のファイルを前に、紗奈はまた同じ場所で立ち止まった。

(何から書けばいいんだろう)

 以前なら、構成を考え、資料を調べ、書き進めることができたはずだった。今は、その最初の一歩が、どこにあるのかさえ分からなくなっていた。まるで、階段の最初の段が、突然見えなくなってしまったようだった。

 佐伯からメッセージが届いた。

「柊さん、今日もゼミ来てなかったね。レポート大丈夫?何か手伝えることあったら言って」

 紗奈はその文字を、何度も読み返した。ありがたいと思う気持ちと、これ以上何かを頼んだら申し訳ないという気持ちが、同時に湧いてきた。

「大丈夫、ありがとう。ちょっと立て込んでて」

 そう返信した。指が動いたのは、それだけだった。本当は、レポートの一文字も書けていないこと、三日もまともに眠れていないこと、そのすべてを、紗奈は言葉にできなかった。

 言葉にした瞬間、それが「本当のこと」になってしまう気がした。今はまだ、誰にも言わなければ、この状態は「一時的なもの」でいられる。そんな根拠のない理屈に、紗奈はしがみついていた。

 夕方、締め切りが過ぎたレポートについて、教授から短いメールが届いた。事務的な、責めるような内容ではなかった。だが、その画面を開いた瞬間、紗奈は胸が締め付けられるのを感じた。

(また、できなかった)

(前は、こんなことなかったのに)

(私、壊れてるのかな)

 自分を責める言葉が、次々と浮かんでくる。それを打ち消そうとする力は、もう紗奈の中に残っていなかった。

 その夜、悠真から電話がかかってきた。約束していたわけではなく、ふと思い立ってかけてきたようだった。

「今、大丈夫?」

 その一言に、紗奈は一瞬、答えられなかった。「大丈夫」という言葉が、あまりにも自分の状態と乖離していて、口にすることさえ躊躇われた。

「……うん」

 短い沈黙のあと、なんとかそれだけを絞り出した。

「声、なんか元気ない気がする。大丈夫?」

 悠真の声には、確かな心配が滲んでいた。紗奈はその優しさを、感じ取ることができた。だが同時に、その優しさに応えるだけの力が、自分にないことも分かっていた。

「ちょっと、試験期間で疲れてるだけ」

「そっか……無理しないでな」

「うん、ありがとう」

 電話を切ったあと、紗奈はスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。

(本当は、違う)

(今日、何も食べてない。何日も、まともに眠れてない。レポートも出せなかった)

(でも、それを言ったら──)

 その先の言葉を、紗奈は自分でも見つけられなかった。心配される。迷惑をかける。去年の繰り返しだと思われる。あるいは、もっと単純に──言葉にする力そのものが、もう残っていないのかもしれなかった。

 窓の外は、いつの間にか真っ暗になっていた。紗奈は電気を消し、ベッドに横たわった。

 時間の感覚が、どんどん曖昧になっていく。今日が何曜日か、一瞬分からなくなる瞬間があった。カレンダーの数字だけが機械的に進んでいき、自分の内側の時間は、どこかで止まってしまったようだった。

 誰にも届かないまま、紗奈の中で、何かが静かに、確実に、擦り減っていった。