その週末、悠真と会う約束があった。
紗奈は前日の夜から、何を話すか、どんな顔をするか、頭の中で何度もシミュレーションしていた。普段なら考えもしないことだった。以前は、悠真と会うのに準備なんて必要なかった。会えば自然に言葉が出てきたし、黙っていても気まずくなかった。
今は違う。「元気そうに見えるだろうか」「変に思われないだろうか」──そんな計算が、会う前から始まっている。
当日、待ち合わせ場所に向かう電車の中で、紗奈は鏡代わりにスマホの画面を見た。表情を作る練習をするように、口角を上げてみる。うまくできているか、自分では分からなかった。
「紗奈、久しぶり」
改札を出てきた悠真の顔を見た瞬間、紗奈は反射的に笑顔を作っていた。作った、という感覚がはっきりとあった。以前は、悠真の顔を見るだけで、勝手に頬が緩んだはずだった。今は、そのプロセスに一段階、余分な動作が挟まっている気がした。
「うん、久しぶり」
カフェに入り、注文をする。何を飲みたいか、決めるのに妙に時間がかかった。メニューを見つめながら、紗奈は自分でも驚いていた。ホットかアイスか、その程度の選択に、こんなに迷うことがあっただろうか。
「紗奈、何にする?」
「あ……同じのでいいや」
決められないことを悟られたくなくて、紗奈は悠真の注文に合わせた。小さな逃げだった。
会話は、表面上は普通に進んでいった。悠真の課題制作の話、共通の友人の近況。紗奈は相槌を打ち、時々質問を挟んだ。だが、心のどこかは、その会話から一歩離れた場所にあった。まるで自分が自分を演じているのを、少し後ろから眺めているような感覚だった。
「紗奈は最近どう?」
悠真がそう聞いた時、紗奈の中で小さな警報が鳴った。
「うーん、特に変わりなく。課題に追われてる感じ」
嘘ではなかった。だが、その言葉の裏にあるものを、紗奈は差し出さなかった。ゼミを休んだこと。レポートが書けなかったこと。夜、眠れないこと。そのどれも、口にすれば「重い」と思われる気がした。悠真の日常に、自分のこの重さを持ち込みたくなかった。
帰り道、悠真がふと言った。
「最近、ちょっと痩せた?」
紗奈は一瞬、答えに詰まった。
「そう? 変わってないと思うけど」
実際には、食事の量はこの一か月でかなり減っていた。作るのが面倒で、コンビニのおにぎり一つで済ませる日が続いていた。空腹を感じないことも増えていた。だが、それを言葉にすることは、紗奈にはできなかった。
家に着いてから、紗奈はどっと疲れを感じた。誰かと会って話すという、以前なら当たり前にできたことが、今は体力を根こそぎ持っていくように感じられた。
部屋の電気をつけないまま、紗奈はベッドに座り込んだ。
(今日も、ちゃんと「大丈夫」に見えたはずだ)
そう思う一方で、その「大丈夫に見えた」という達成感の裏に、言いようのない虚しさがあった。うまく演じられるほど、本当の自分がどこにいるのか、分からなくなっていく気がした。
窓の外はもう暗い。カレンダーを見ると、来週提出のレポートの締め切りに丸がついていた。まだ何も手をつけていない。
(やらなきゃ)
そう思うのに、体は動かなかった。パソコンを開く気力もなく、紗奈はそのまま、服も着替えずに横になった。
天井を見つめながら、紗奈はふと、最近笑っていない自分に気づいた。正確には、笑顔を作ることはできる。だが、その笑顔の奥に、何かを感じて笑った記憶が、いつからか思い出せなくなっていた。
スマホが光った。悠真からの「今日はありがとう、また会おうな」というメッセージだった。
紗奈はその文字をしばらく見つめ、「うん、また」とだけ返した。
送信した後、紗奈は自分の指が、もう何度も同じような短い返信を繰り返していることに気づいた。かつては長文で近況を送り合っていたはずのトーク画面が、いつの間にか、短い相槌のような言葉ばかりになっていた。
それに気づいても、紗奈にはもう、それを変える力が残っていなかった。
紗奈は前日の夜から、何を話すか、どんな顔をするか、頭の中で何度もシミュレーションしていた。普段なら考えもしないことだった。以前は、悠真と会うのに準備なんて必要なかった。会えば自然に言葉が出てきたし、黙っていても気まずくなかった。
今は違う。「元気そうに見えるだろうか」「変に思われないだろうか」──そんな計算が、会う前から始まっている。
当日、待ち合わせ場所に向かう電車の中で、紗奈は鏡代わりにスマホの画面を見た。表情を作る練習をするように、口角を上げてみる。うまくできているか、自分では分からなかった。
「紗奈、久しぶり」
改札を出てきた悠真の顔を見た瞬間、紗奈は反射的に笑顔を作っていた。作った、という感覚がはっきりとあった。以前は、悠真の顔を見るだけで、勝手に頬が緩んだはずだった。今は、そのプロセスに一段階、余分な動作が挟まっている気がした。
「うん、久しぶり」
カフェに入り、注文をする。何を飲みたいか、決めるのに妙に時間がかかった。メニューを見つめながら、紗奈は自分でも驚いていた。ホットかアイスか、その程度の選択に、こんなに迷うことがあっただろうか。
「紗奈、何にする?」
「あ……同じのでいいや」
決められないことを悟られたくなくて、紗奈は悠真の注文に合わせた。小さな逃げだった。
会話は、表面上は普通に進んでいった。悠真の課題制作の話、共通の友人の近況。紗奈は相槌を打ち、時々質問を挟んだ。だが、心のどこかは、その会話から一歩離れた場所にあった。まるで自分が自分を演じているのを、少し後ろから眺めているような感覚だった。
「紗奈は最近どう?」
悠真がそう聞いた時、紗奈の中で小さな警報が鳴った。
「うーん、特に変わりなく。課題に追われてる感じ」
嘘ではなかった。だが、その言葉の裏にあるものを、紗奈は差し出さなかった。ゼミを休んだこと。レポートが書けなかったこと。夜、眠れないこと。そのどれも、口にすれば「重い」と思われる気がした。悠真の日常に、自分のこの重さを持ち込みたくなかった。
帰り道、悠真がふと言った。
「最近、ちょっと痩せた?」
紗奈は一瞬、答えに詰まった。
「そう? 変わってないと思うけど」
実際には、食事の量はこの一か月でかなり減っていた。作るのが面倒で、コンビニのおにぎり一つで済ませる日が続いていた。空腹を感じないことも増えていた。だが、それを言葉にすることは、紗奈にはできなかった。
家に着いてから、紗奈はどっと疲れを感じた。誰かと会って話すという、以前なら当たり前にできたことが、今は体力を根こそぎ持っていくように感じられた。
部屋の電気をつけないまま、紗奈はベッドに座り込んだ。
(今日も、ちゃんと「大丈夫」に見えたはずだ)
そう思う一方で、その「大丈夫に見えた」という達成感の裏に、言いようのない虚しさがあった。うまく演じられるほど、本当の自分がどこにいるのか、分からなくなっていく気がした。
窓の外はもう暗い。カレンダーを見ると、来週提出のレポートの締め切りに丸がついていた。まだ何も手をつけていない。
(やらなきゃ)
そう思うのに、体は動かなかった。パソコンを開く気力もなく、紗奈はそのまま、服も着替えずに横になった。
天井を見つめながら、紗奈はふと、最近笑っていない自分に気づいた。正確には、笑顔を作ることはできる。だが、その笑顔の奥に、何かを感じて笑った記憶が、いつからか思い出せなくなっていた。
スマホが光った。悠真からの「今日はありがとう、また会おうな」というメッセージだった。
紗奈はその文字をしばらく見つめ、「うん、また」とだけ返した。
送信した後、紗奈は自分の指が、もう何度も同じような短い返信を繰り返していることに気づいた。かつては長文で近況を送り合っていたはずのトーク画面が、いつの間にか、短い相槌のような言葉ばかりになっていた。
それに気づいても、紗奈にはもう、それを変える力が残っていなかった。



