ベストフレンズ

 カフェでこぼれた言葉は、その日、それ以上先には進まなかった。

「最近、あんまり、うまくいってなくて……」

 そこまで言うのが、紗奈にとっての限界だった。悠真は急かさず、ただ「うん」と頷き続けた。何も聞き出そうとせず、ただ隣にいた。その沈黙が、あの時は優しく感じられた。

 家に帰る電車の中、紗奈は窓に映る自分の顔をぼんやり眺めていた。

(言えた)

 そう思う一方で、別の声が頭の中で響いていた。

(言っちゃった)

(また、心配させた)

(去年と、同じじゃない)

 二つの声は、電車の揺れに合わせるように交互に浮かんでは消えた。どちらが本当の自分の声なのか、紗奈にはもう区別がつかなくなっていた。

 その夜、紗奈は珍しく早めに布団に入った。少しだけ、体が軽くなった気がしていた。だが、その軽さは長くは続かなかった。

 翌朝、目を開けた瞬間、紗奈は妙な感覚に襲われた。起きなければいけないという意識はあるのに、体がその指令を受け取ってくれない。まるで自分の輪郭と、体の重さの間に、薄い膜が一枚挟まっているようだった。

(今日は、ゼミがある)

 分かってはいる。行かなければいけないことも、資料を準備しなければいけないことも。だが、その「わかっている」という感覚と、「動ける」という感覚の間には、越えられない距離があった。

 結局、その日はゼミを休んだ。「体調不良で」と佐伯にメッセージを送った。噓ではなかった。ただ、その体調不良の名前を、紗奈自身が知らなかった。

 一日が、やけに長かった。カーテンを閉めた部屋の中で、時間の感覚がゆっくりと溶けていく。スマホの時計を見ると、まだ昼前だった。次に見た時も、大して進んでいなかった。まるで時間が、粘度を増した液体のように、部屋の中に淀んでいるようだった。

 夕方、母親から電話が来た。出るべきか、紗奈は数秒迷った。出ないという選択肢が、なぜか一番楽に思えた。だが、出ないことで心配をかけるという想像が、それ以上に重かった。

「もしもし」

「最近どう?ちゃんと寝れてる?」

「うん、寝れてるよ」

 噓だった。だが、正直に「眠れていない」と言った先に何が起きるのか、紗奈には想像がつかなかった。心配される。聞かれる。何があったのか説明を求められる。その説明ができない自分が、また責められる──そんな想像が、実際に起きてもいない会話の中で、勝手に膨らんでいった。

「そう。……声、ちょっと疲れてない?」

「気のせいだよ」

 電話を切った後、紗奈はしばらくスマホを見つめていた。母の声のトーンに、確かに何かを感じ取ったのが分かった。それでも言えなかった自分に、静かな失望が積み重なった。

(また、同じことをしてる)

 夜、机に向かってレポートを書こうとした。パソコンの画面には、白紙のままのファイルが開かれている。カーソルが点滅している。

 書き出しの一文を考える。だが、頭に浮かぶ言葉のどれもが、正しくない気がした。書いては消し、また書いては消す。三十分が経っても、画面には何も残らなかった。

(こんな簡単なことも、できない)

(前は、もっとすぐ書けたのに)

(私、おかしくなったのかな)

 自分を責める言葉が、次から次へと浮かんでは、頭の中に居座った。一つを追い払っても、また別の言葉が同じ場所に入り込んでくる。まるで同じ道を何度も踏み固めていくように、その思考の轍だけが、日に日に深くなっていった。

 パソコンを閉じ、紗奈はベッドに横になった。天井の木目を見つめる。何も考えたくないのに、考えることをやめられなかった。

 スマホが震えた。悠真からだった。

「今日どうだった?」

紗奈はその文字をしばらく見つめた。今日あったこと──ゼミを休んだこと、レポートが一文字も書けなかったこと、母に噓をついたこと──そのどれも、書く気力が湧かなかった。

 指が、画面の上で止まっている。

「楽しかったよ」

 そう打ちかけて、消した。噓が大きすぎる気がした。

「特に何もなかった」

 それも消した。

 結局、紗奈が送ったのは、こうだった。

「ちょっと疲れたけど、大丈夫だよ」

 半分は本当で、半分は噓だった。疲れているのは事実だ。だが「大丈夫」ではなかった。それでも、その一言をつけることで、これ以上何も聞かれずに済む。そのことを、紗奈は自分でも気づかないうちに、覚えてしまっていた。

 すぐに返事が来た。

「疲れてるなら、無理しないでな」

 紗奈は「うん」とだけ返し、スマホを伏せた。

 暗い部屋の中、紗奈は目を閉じた。眠れる気配はなかった。ただ、頭の中で同じ考えだけが、静かに、繰り返し繰り返し、巡り続けていた。

(誰にも、迷惑をかけたくない)

 その一つの思いだけが、紗奈をどんどん、一人にしていった。