佐伯は、その日の夜、なかなか眠れずにいた。
紗奈の涙を思い出す。あんなふうに崩れる姿を見たのは初めてだった。いつも冷静で、頼りになる紗奈。その裏に、何かが積もっていたことに、今更ながら気づかされていた。
(誰かに、伝えた方がいいのかな)
だが、佐伯自身、紗奈とはゼミで知り合っただけの関係だ。深い事情を知っているわけではない。踏み込みすぎることへの躊躇いもあった。
翌日、佐伯はゼミ室で紗奈を見つけた。紗奈は普段通りの様子を装っていたが、目の下にはうっすらと隈が見えた。
「柊さん、昨日はごめんね、急に」
「ううん、こっちこそ、心配かけてごめん」
紗奈はいつもの調子で笑おうとしたが、その笑顔はどこか張り付いたもののように見えた。
「あのさ」
佐伯は少し迷ってから、続けた。
「柊さんって、彼氏さんいるんだよね? 前に話してた」
紗奈は一瞬驚いた表情を見せた。悠真のことを佐伯に話したのは、以前雑談の流れで一度だけだった。
「うん……いるよ」
「その人には、話した? 今の状態」
紗奈は視線を落とした。
「……ううん」
「なんで?」
佐伯の問いは、責めるものではなく、純粋な疑問のように聞こえた。紗奈はしばらく黙ってから、ぽつりと答えた。
「心配、かけたくないから」
「でも、彼氏さんでしょ。心配するのが普通じゃない?」
紗奈はその言葉に、うまく答えられなかった。分かってはいる。頭では分かっている。だが、去年あれだけ迷惑をかけたという記憶が、紗奈の口を重くしていた。
「去年も、色々あってさ。もう、大丈夫になったはずだったから。また同じこと言うの、情けなくて」
佐伯は少し考えてから言った。
「情けなくないと思うけどな。人って、一回良くなったら、ずっとそのままってわけじゃないでしょ。波があるの、普通じゃない?」
その言葉は、紗奈の中に静かに落ちていった。誰かにそう言われたのは、久しぶりのことだった。
その週末、悠真から連絡が来た。
「今度の土曜、時間ある?ちょっと会って話したいことがあって」
紗奈は少し身構えた。何かあったのだろうかと思ったが、深く考えないようにして、「うん、大丈夫だよ」と返信した。
土曜日、二人は大学の近くのカフェで会った。久しぶりに顔を合わせた悠真は、少し疲れた様子だったが、紗奈を見るなり表情を緩めた。
「久しぶり」
「うん……久しぶり」
紗奈は意識して笑顔を作った。だが悠真は、その笑顔をじっと見つめていた。
「紗奈」
「うん?」
「……ちゃんと、寝れてる?」
紗奈の心臓が、小さく跳ねた。以前にも聞かれた質問だった。あの時は自然に笑ってごまかせた。だが今日は、うまく表情が作れなかった。
「……なんで、急に」
「なんとなく。最近の紗奈、ちょっと元気ないような気がして」
悠真の目は、真剣だった。ごまかしを許さない、というより、ただ純粋に心配している目だった。
紗奈は俯いた。テーブルの上のカップを見つめながら、何と答えるべきか、必死に考えていた。
「大丈夫だよ」を言おうとして、その言葉が喉の奥で止まった。
去年の冬、母親に本当のことを話せた時のことを思い出す。悠真に少しずつ弱さを見せられるようになった、あの一年間の変化を思い出す。
(また、同じことを繰り返すの?)
(言えないまま、一人で抱え込んで、また限界まで追い詰められるの?)
紗奈の目に、じわりと涙が滲んだ。
「紗奈?」
悠真が身を乗り出した。紗奈は顔を上げられないまま、小さく首を振った。
「……ごめん」
「謝らなくていいよ。ゆっくりでいいから」
悠真はそう言って、紗奈の手にそっと自分の手を重ねた。あの一年前と同じように。何も急かさず、ただそこにいるという姿勢で。
紗奈は深呼吸を一つした。そして、震える声で、ようやく口を開いた。
「……最近、あんまり、うまくいってなくて」
その一言が、堰《せき》を切ったように、次の言葉を連れてきた。
紗奈の涙を思い出す。あんなふうに崩れる姿を見たのは初めてだった。いつも冷静で、頼りになる紗奈。その裏に、何かが積もっていたことに、今更ながら気づかされていた。
(誰かに、伝えた方がいいのかな)
だが、佐伯自身、紗奈とはゼミで知り合っただけの関係だ。深い事情を知っているわけではない。踏み込みすぎることへの躊躇いもあった。
翌日、佐伯はゼミ室で紗奈を見つけた。紗奈は普段通りの様子を装っていたが、目の下にはうっすらと隈が見えた。
「柊さん、昨日はごめんね、急に」
「ううん、こっちこそ、心配かけてごめん」
紗奈はいつもの調子で笑おうとしたが、その笑顔はどこか張り付いたもののように見えた。
「あのさ」
佐伯は少し迷ってから、続けた。
「柊さんって、彼氏さんいるんだよね? 前に話してた」
紗奈は一瞬驚いた表情を見せた。悠真のことを佐伯に話したのは、以前雑談の流れで一度だけだった。
「うん……いるよ」
「その人には、話した? 今の状態」
紗奈は視線を落とした。
「……ううん」
「なんで?」
佐伯の問いは、責めるものではなく、純粋な疑問のように聞こえた。紗奈はしばらく黙ってから、ぽつりと答えた。
「心配、かけたくないから」
「でも、彼氏さんでしょ。心配するのが普通じゃない?」
紗奈はその言葉に、うまく答えられなかった。分かってはいる。頭では分かっている。だが、去年あれだけ迷惑をかけたという記憶が、紗奈の口を重くしていた。
「去年も、色々あってさ。もう、大丈夫になったはずだったから。また同じこと言うの、情けなくて」
佐伯は少し考えてから言った。
「情けなくないと思うけどな。人って、一回良くなったら、ずっとそのままってわけじゃないでしょ。波があるの、普通じゃない?」
その言葉は、紗奈の中に静かに落ちていった。誰かにそう言われたのは、久しぶりのことだった。
その週末、悠真から連絡が来た。
「今度の土曜、時間ある?ちょっと会って話したいことがあって」
紗奈は少し身構えた。何かあったのだろうかと思ったが、深く考えないようにして、「うん、大丈夫だよ」と返信した。
土曜日、二人は大学の近くのカフェで会った。久しぶりに顔を合わせた悠真は、少し疲れた様子だったが、紗奈を見るなり表情を緩めた。
「久しぶり」
「うん……久しぶり」
紗奈は意識して笑顔を作った。だが悠真は、その笑顔をじっと見つめていた。
「紗奈」
「うん?」
「……ちゃんと、寝れてる?」
紗奈の心臓が、小さく跳ねた。以前にも聞かれた質問だった。あの時は自然に笑ってごまかせた。だが今日は、うまく表情が作れなかった。
「……なんで、急に」
「なんとなく。最近の紗奈、ちょっと元気ないような気がして」
悠真の目は、真剣だった。ごまかしを許さない、というより、ただ純粋に心配している目だった。
紗奈は俯いた。テーブルの上のカップを見つめながら、何と答えるべきか、必死に考えていた。
「大丈夫だよ」を言おうとして、その言葉が喉の奥で止まった。
去年の冬、母親に本当のことを話せた時のことを思い出す。悠真に少しずつ弱さを見せられるようになった、あの一年間の変化を思い出す。
(また、同じことを繰り返すの?)
(言えないまま、一人で抱え込んで、また限界まで追い詰められるの?)
紗奈の目に、じわりと涙が滲んだ。
「紗奈?」
悠真が身を乗り出した。紗奈は顔を上げられないまま、小さく首を振った。
「……ごめん」
「謝らなくていいよ。ゆっくりでいいから」
悠真はそう言って、紗奈の手にそっと自分の手を重ねた。あの一年前と同じように。何も急かさず、ただそこにいるという姿勢で。
紗奈は深呼吸を一つした。そして、震える声で、ようやく口を開いた。
「……最近、あんまり、うまくいってなくて」
その一言が、堰《せき》を切ったように、次の言葉を連れてきた。



