ベストフレンズ

 ゼミ発表の朝、紗奈は目覚まし時計が鳴る前から目が覚めていた。

 眠れていない。正確には、眠りが浅く、何度も目が覚めては、また意識が沈むという状態を繰り返していた。体は重く、頭には靄がかかったようだった。

 資料はどうにか完成させていた。徹夜に近い形で、昨夜遅くまでかかって仕上げたものだ。内容に自信はなかったが、これ以上手を加える余力もなかった。

 大学へ向かう電車の中、紗奈は資料を何度も読み返した。文字は目で追えるのに、内容が頭に入ってこない。同じ段落を三度読んで、ようやく意味がぼんやりと像を結ぶ。

(大丈夫。準備はしてきた)

 そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥で何かがざわついていた。

 ゼミ室に着くと、佐伯が先に来ていた。

「柊さん、おはよう。今日発表だっけ」

「うん」

「顔色、あんまり良くないよ。大丈夫?」

「緊張してるだけ」

 紗奈はそう答え、席についた。佐伯はそれ以上何も言わなかったが、少し心配そうな表情を残したまま、自分の席へ戻っていった。

 発表の順番は三番目だった。前の二人の発表を聞きながら、紗奈は自分の資料を何度も見返した。手が微かに震えていることに気づく。緊張のせいか、それとも別の何かか、自分でも区別がつかなかった。

「では次、柊さん、お願いします」

 教授に呼ばれ、紗奈は立ち上がった。教壇に立ち、資料を配る。深呼吸を一つして、話し始めた。

 最初はうまく話せていた。準備してきた言葉が、順序通りに口から出てくる。だが、五分ほど経った頃、紗奈はふと自分がどこを話しているのか分からなくなった。

 言葉が、途切れた。

「……えっと」

 紗奈は資料に目を落とした。文字は見えているのに、次に何を言うべきか、頭の中で線が繋がらない。教室が静まり返る。誰かが小さく咳払いをする音が聞こえた。

「柊さん、大丈夫?」

 教授の声が、遠くから聞こえるようだった。紗奈は資料を見つめたまま、しばらく動けなかった。

(言わなきゃ。何か、言わなきゃ)

 だが言葉が出てこない。頭の中は真っ白で、目の前がわずかに霞んでいくような感覚があった。膝が、微かに震えている。

「すみません……少し、休憩をいただいてもいいですか」

 やっとの思いで、それだけを口にした。教授は少し驚いた様子だったが、「もちろん。無理しないで」と頷いた。

 紗奈は資料を持ったまま、逃げるようにゼミ室を出た。廊下の隅にあるベンチに座り込む。手が震えていた。息が浅く、うまく吸えない。

(何やってるんだろう、私)

(こんなことも、ちゃんとできない)

 自己嫌悪が、次から次へと押し寄せてくる。目の奥が熱くなるのを感じたが、涙は出なかった。ただ、体の中から何かが抜け落ちていくような感覚だけがあった。

 数分後、佐伯が廊下に出てきた。

「柊さん……大丈夫? 水、持ってきた」

 紗奈は顔を上げた。佐伯の顔には、はっきりとした心配の色があった。今までのように「気のせい」で片付けられる表情ではなかった。

「ありがとう……」

 紗奈はペットボトルを受け取ったが、手が震えて、うまく蓋を開けられなかった。それを見た佐伯は、何も言わずに蓋を開けて渡してくれた。

「無理して発表しなくていいと思う。先生にも、そう言っておいたから」

「ごめん……迷惑かけて」

「迷惑なんかじゃないよ」

 佐伯はそう言って、紗奈の隣に座った。しばらく二人は無言だった。廊下の窓から、まだ止まない雨が見えた。

「柊さんさ」

 佐伯が、静かに口を開いた。

「最近、無理してない?」

 紗奈は答えられなかった。答えの代わりに、目からようやく涙がこぼれた。自分でも驚くほど、それは静かに、止めどなく流れ落ちていった。

 佐伯は何も聞かず、ただ隣に座り続けていた。

 その日の午後、紗奈は結局、発表を延期してもらうことになった。家に帰る道すがら、紗奈はスマホを開き、悠真とのトーク画面を見つめた。

 何か送ろうとして、指が止まる。

「今日、発表でうまく話せなくなった」

 そこまで打って、また消した。

 代わりに送ったのは、いつもと同じ言葉だった。

「今日も一日お疲れさま」

 送信済みの表示を見つめながら、紗奈は自分がまた同じことを繰り返していることに気づいていた。だが、その先の言葉を送る勇気は、まだどこにも見当たらなかった。