ベストフレンズ

 七月に入っても、梅雨は明けなかった。

 紗奈のゼミでは、夏休み前の課題発表が近づいていた。テーマは各自自由。紗奈は近代文学における「言葉にならないもの」というテーマを選んでいた。皮肉なことに、と紗奈は思う。自分自身が今、まさにそれを生きている。

 発表の準備をしながら、紗奈は資料を読む手を何度も止めた。文字が頭に入ってこない。同じ行を五回読んでも、意味が像を結ばない。

(前も、こうだった)

 去年の冬、テスト勉強がまったく手につかなくなった時期があった。あの感覚と同じものが、また戻ってきている。紗奈はそのことに気づきながらも、誰にも言わなかった。

「言えば、また心配させる」

「言えば、去年の繰り返しだと思われる」

「言えば……」

 その先の言葉を、紗奈は自分でも見つけられなかった。

 土曜日、悠真から電話がかかってきた。約束していたわけではなく、ふと思い立ってかけてきたらしい。

「今、大丈夫?」

「うん、平気だよ」

久しぶりに聞く悠真の声に、紗奈は少しだけ緊張が緩むのを感じた。

「そっちはどう?制作、進んでる?」

 悠真は最近取り組んでいる課題制作について話し始めた。声には疲れも滲んでいたが、どこか楽しそうでもあった。紗奈はその話を聞きながら、相槌を打った。

「紗奈は? ゼミの発表、もうすぐだっけ」

「うん。まだ全然できてないけど」

「大丈夫? 手伝えることあったら言って」

「大丈夫だよ、ありがとう」

 また、その言葉だ。紗奈は電話を切った後、自分がどれだけこの三文字に頼っているかを思った。便利な言葉だ。相手を安心させ、それ以上聞かれずに済む。だが同時に、自分をどんどん一人にしていく言葉でもあった。

 電話の間、悠真は紗奈の声の微かな低さに気づいていた。だが「大丈夫」と言われれば、それ以上は踏み込めない。去年の冬、紗奈が本当に助けを求めた時のことを思い出す。あの時は、紗奈の方から「消えたい」と言葉にしてくれた。今回は、何も言われていない。

(気のせいだといいけど)

 悠真はそう思いながらも、心のどこかに小さな引っかかりを感じていた。それを恒一に話すべきか迷い、結局、その日はそのままにしてしまった。

 日曜日、紗奈は久しぶりに実家に帰った。母親の顔を見た瞬間、紗奈は少しだけ気が緩むのを感じた。だがそれも一瞬だった。

「痩せたんじゃない?」

 母親がそう言った時、紗奈は反射的に「そんなことないよ」と答えていた。実際には、この一か月で食事の量は確実に減っていた。作るのが億劫で、コンビニのおにぎり一つで済ませる日が増えていた。

「ちゃんと食べてる?」

「食べてるよ」

 嘘ではない、と紗奈は自分に言い聞かせた。食べている。ただ、量が少ないだけ。それだけだ、と。

 夕食の席で、母親は紗奈の箸の進みが遅いことに気づいていた。だが直接指摘はせず、「無理しないでね」とだけ言った。紗奈は「うん」と頷いた。

 その夜、自室のベッドで、紗奈は天井を見つめていた。実家の部屋は、高校時代のままの状態で残されている。壁に貼られた模試の成績表、本棚に並んだ参考書。あの頃の自分と、今の自分。

(あの時は、悠真がいてくれた)

(毎日会えて、何も言わなくても、隣にいるだけで良かった)

 今は違う。会いたくても会えない。電話やメッセージでは、伝えられることに限界がある。声のトーンで、表情で、隣にいる気配で伝わっていたものが、今はどこにも届かない。

 紗奈はスマホを開き、悠真とのトーク画面を眺めた。「大丈夫だよ」「うん」「元気だよ」──自分が送った言葉が並んでいる。まるで、本当の自分を覆い隠すための壁のようだった。

(本当のことを言ったら、どうなるんだろう)

 紗奈はそう考えかけて、すぐに打ち消した。

(迷惑かける。また、去年みたいに、みんなを心配させる)

(今度こそ、一人でなんとかしなきゃ)

 その考えが、紗奈をさらに一人にしていく。誰も気づいていないわけではなかった。悠真も、母親も、佐伯も、それぞれの立場でわずかな違和感を覚えている。だがその糸は、まだ誰の手にも届いていなかった。

 窓の外で、雨がまた降り始めた。