ベストフレンズ

 六月の雨は、音もなく紗奈の日常に染み込んでいた。

 ゼミが終わり、キャンパスを出た紗奈は、傘を差したまま、しばらく校門の前で立ち尽くしていた。今日はサークルの飲み会がある。行くと返事をしていたが、体が重くて動かない。

 スマホを開く。グループラインには「今日楽しみー!」というメッセージが並んでいる。紗奈は「ごめん、今日ちょっと体調悪くて」と打ちかけて、消した。また同じ言い訳だ。先月も、先々月も。

 代わりに打ったのは「今行きます」の五文字だった。

 飲み会は賑やかだった。紗奈は笑い、相槌を打ち、誰かの話に驚いてみせた。うまくできている、と思う。うまくできすぎていて、自分でも怖くなる。

「柊さん、最近ちょっと元気ないよね」

 隣に座った佐伯が、ふとそう言った。責めるような口調ではなく、ただ気づいたことをそのまま口にしたという感じだった。

 紗奈は一瞬、言葉に詰まった。

「そんなことないよ。ちょっと課題が多くて」

「そっか」

 佐伯はそれ以上聞かなかった。踏み込んでいいのか分からなかったのだろう。紗奈もまた、踏み込ませたいのか、踏み込ませたくないのか、自分で分からなかった。

 帰り道、雨は本降りになっていた。紗奈は傘を差さずに、しばらく濡れながら歩いた。冷たさが、頭の中のもやを少しだけ晴らしてくれる気がした。

 スマホが震える。悠真からだった。

「今日どうだった?」

 紗奈は画面をしばらく見つめた。「楽しかったよ」と打つ。それから、少し迷って、「ちょっと疲れたけど」と付け加えた。それが今の自分にできる、精一杯の本音だった。

 すぐに返事が来る。

「疲れてるなら、無理しないでな。今度電話する?」

 紗奈は「うん」とだけ返した。

 電話は、その夜はかからなかった。悠真はサークルの用事で遅くなり、「ごめん、また明日」とメッセージが届いた。紗奈は「大丈夫だよ」と返し、既読をつけたまま、しばらく天井を見ていた。
 
 大丈夫、という言葉を、自分がどれだけ軽く使っているか。紗奈はふと、そのことに気づいた。

 去年のあの冬、自分は「大丈夫じゃない」と初めて言えるようになったはずだった。母に話し、クリニックに通い、悠真にも少しずつ弱さを見せられるようになった。あの一年間の変化は、確かに自分のものだったはずだ。

 なのに今、また同じ言葉の裏に隠れている。

(また、迷惑かけたくない)

(去年あんなに助けてもらったのに)

(今度は、一人でなんとかしなきゃ)

 そう思う自分と、去年学んだはずの自分が、頭の中でせめぎ合っていた。だが結局、口から出るのは「大丈夫」の三文字だけだった。

 窓の外では雨が降り続いている。紗奈はベッドに横になり、目を閉じた。眠れる気はしなかったが、それ以上何かを考える気力もなかった。

 翌朝、母親からの電話が来た。

「最近どう? ちゃんと寝れてる?」

「うん、寝れてるよ」

「そう。……声、ちょっと疲れてない?」

 紗奈は少し笑って答えた。

「気のせいだよ。新生活、疲れるのは普通でしょ」

 電話の向こうで、母親が小さく黙った。それから「そう」とだけ言った。

 通話を切った後、紗奈はスマホを机に置き、窓の外を見た。雨はまだ降っている。

(誰も、悪くない)

 紗奈はそう思った。悠真もサークルで忙しい。母も遠くにいる。佐伯だって、深く知らない相手にそこまで踏み込めない。みんな、自分なりに気づいている。でも誰も、確信が持てずにいる。

 そしてそれは、紗奈自身が──誰にも本当のことを、まだ一言も言えていないからだった。