ベストフレンズ

 六月半ば、梅雨入りの発表があった。灰色の空が続く日々の中で、紗奈の心も、その天気とどこか重なっていくようだった。

 朝、目を覚ましても、体が重かった。授業に出るための身支度が、以前より何倍も時間がかかるようになっていた。

「休もうかな」

 そう思う日が、少しずつ増えていた。でも、休むことにも罪悪感があった。休めば、誰かに理由を聞かれるかもしれない。理由を聞かれたら、答えなければならない。答えられる言葉を、紗奈は持っていなかった。

 結局、いつも通り家を出た。雨の中を大学まで歩きながら、紗奈はふと、傘を差す自分の手が、やけに他人のもののように感じられた。


 母親から電話がかかってきたのは、その週の週末だった。

「最近、あんまり連絡くれないね」

「ごめん、ちょっとバタバタしてて」

「体調は大丈夫? ちゃんと食べてる?」

「食べてるよ、大丈夫」

 その「大丈夫」を口にするたび、紗奈の中で何かがすり減っていく感覚があった。嘘をついているつもりはなかった。ただ、本当のことを言葉にする力が、今は残っていなかった。

 電話を切った後、母親はしばらくスマホを見つめていた。娘の声のトーンに、去年の冬と似た響きがあった気がしたが、確信は持てなかった。「考えすぎかもしれない」と、母親は自分に言い聞かせた。新生活の疲れは、誰にでもあることだから。



 悠真は、その週末、紗奈の下宿を訪ねた。久しぶりの再会だった。

「久しぶり」

 紗奈は笑顔で迎えたが、悠真は一瞬、何かが違う、と感じた。うまく言葉にできない違和感だった。紗奈の部屋は以前より片付いていて、生活感が薄かった。

「元気そうだな」

「うん、まあまあ」

 二人で近くのカフェに行き、他愛のない話をした。大学のこと、サークルのこと、恒一や玲奈の近況。会話は途切れることなく続いたが、悠真はどこかで、紗奈が「話を合わせている」ような感覚を拭えなかった。

「紗奈、最近ちゃんと寝れてる?」

 思い切って聞いてみると、紗奈は少し驚いたような顔をしてから、笑った。

「なんで急に」

「いや、なんとなく」

「大丈夫だよ、ちゃんと寝てる」

 その笑顔が、あまりにも自然だったから、悠真はそれ以上追及しなかった。もし何かあれば、紗奈の方から話してくれるはずだと、どこかで信じていた。それは信頼でもあり、同時に、踏み込むことへの遠慮でもあった。


 その夜、下宿に一人になった紗奈は、悠真と過ごした数時間を思い返していた。

 楽しかった。それは嘘ではなかった。悠真と話している時間は、確かに紗奈の心を軽くしてくれた。

 でも、悠真が帰った後の部屋の静けさが、その何倍も重く感じられた。まるで、楽しい時間の後に、その反動が押し寄せてくるようだった。

「なんで、言えなかったんだろう」

 紗奈は小さく呟いた。悠真が「ちゃんと寝れてる?」と聞いてくれた、あの瞬間。あそこで「実は」と続けることは、できたはずだった。

 でも、できなかった。

──去年、あんなに助けてもらったのに。

──今度は、自分でどうにかしなきゃいけない気がする。

 そんな歪んだ責任感が、紗奈の口をふさいでいた。助けを求めることは、決して弱さの証明ではないと、頭では分かっているつもりだった。でも、心はまだ、そのことを受け入れられずにいた。


 恒一は、大学は違ったが、時々悠真と連絡を取り合っていた。

「紗奈、最近どうよ」

「うーん、普通だと思う。この前会ったけど、元気そうだった」

「そっか」

 恒一は、それ以上何も言わなかった。ただ、電話を切った後、少しだけ胸に引っかかるものを感じていた。高校時代、紗奈の異変に一番早く気づいたのは、実は悠真ではなく、周りで見ていた自分たちだったこともある。

 でも今は、みんな物理的に離れた場所にいた。目の届く距離にいないことが、こんなにも「気づき」を難しくするのだと、恒一はまだ実感していなかった。


 六月の雨は、しばらく止みそうになかった。

 紗奈の中で、言葉にならない何かが、静かに、しかし確実に降り積もっていた。誰も、まだそれに気づいていなかった。