ベストフレンズ

 夏休みまで、あと一週間というところで、誰かが「海行こう」と言い出した。

 誰が最初に言ったのかは、後になっても分からなかった。気づいたらLINEのグループに話が流れていて、気づいたら十二人の参加者が集まっていた。

 クラスの有志、という感じの集まりだった。仲のいい人間が声をかけ合って、自然に人数が増えた。悠真も恒一も紗奈も入っていた。

 玲奈も、誰かに誘われて入っていた。



 当日は快晴だった。

 電車で四十分ほどの海。地元の人間にとっては「少し遠い」くらいの距離で、観光客が来るような場所でもないから、混みすぎず空きすぎず、ちょうどいい砂浜だった。

 悠真はカメラを持っていこうか迷って、結局持っていかなかった。

 砂と潮風がレンズに悪い、という理由もあったが、それより──今日は撮る側じゃなくていい気がした。そういう日もある。



 砂浜に着くと、みんな思い思いに散らばった。

 海に入るグループ、砂浜に荷物を広げるグループ、コンビニで買ってきた食べ物をひろげるグループ。

 恒一はすぐに海に飛び込んでいた。

 悠真は荷物を置いて、砂浜に座った。

 波を見ていた。

 光が水面に乱反射して、眩しくて、でもその眩しさが気持ちよかった。カメラを持ってこなかったことを、少しだけ後悔した。でもこういう光景は、レンズを通さない方が鮮明に残ることもある。そう思うことにした。

「座っていいですか」

 横に玲奈が来た。

「どうぞ」

 玲奈は麦わら帽子をかぶっていた。学校では見たことのない格好だった。私服だと少し印象が違う。柔らかい感じがした。

「カメラ持ってこなかったんですか」と玲奈が言った。

「今日は」

「珍しい」

「そういう日もあります」

 玲奈は海を見た。

「私も持ってこなかったです」

「同じですね」

「たまに、目で見るだけにしたくなります」

「分かります」

 波が来て、砂に吸い込まれた。また来て、また消えた。それを繰り返している。

「楽しいですか、今日」と玲奈が聞いた。

「まあ、楽しいです」

「歯切れが悪いですね」

「こういう大勢でわいわいする感じが、得意でも苦手でもないんですよ」と悠真は言った。「嫌じゃないけど、積極的に求めるものでもないというか」

「私もそうです」

「でも来たんですね」

「誘われたので」と玲奈は言った。「断る理由もなかったし。こういう時に輪に入っておくと、後で話しやすくなるから」

「計算してるんですね」

「計算、とは少し違いますけど」と玲奈は少し考えた。「転校先で孤立しないための、習慣みたいなものです」

 悠真はその言葉を聞いて、何かが胸に引っかかった。

 習慣。

 新しい場所に来るたびに、一から関係を作り直す。それを三回繰り返している。その都度、輪に入るための行動を習慣にしている。

 そのことの重さを、悠真は少しだけ考えた。

「大変じゃないですか」

「何が」

「毎回、ゼロから始めること」

 玲奈は少し間を置いた。

「慣れましたよ、一応」

「一応、ですか」

「……一応、です」と玲奈は繰り返した。今度は少し笑いながら。

 その笑い方が、いつもより少しだけ力を抜いた感じがした。



 昼頃、みんなで輪になってご飯を食べた。

 コンビニのおにぎりとサンドイッチと、誰かが持ってきた唐揚げが混在していた。

 恒一は海から戻ってきて、全身びしょ濡れのまま唐揚げを食べていた。

「乾かせよ」と悠真が言った。

「乾くから」と恒一は言った。

 笑い声が起きた。

 紗奈は悠真の斜め向かいに座っていた。

 楽しそうだった。女子たちと話して、笑って、いつもより少し声が大きかった。こういう場での紗奈は、悠真が一番よく知っている顔だった。学校にいる時の紗奈より、少しだけ力が抜けている。

 玲奈は輪の端の方で、おにぎりを食べながら話を聞いていた。

 話の流れに乗れる時は乗って、乗れない時は笑顔で聞いている。自然だった。無理をしている感じがしない。

 悠真はその二人を、交互に見ていた。

 見ていた、というより──無意識に視線が行き来していた。

 恒一がそれに気づいた。

 気づいた、と分かったのは、恒一が何も言わなかったからだ。言いたそうな顔をして、何も言わなかった。

 それが恒一の、一番嫌なところだと悠真は思った。


 午後、海に入った。

 悠真も入った。冷たくはなかった。七月の海は温度が高くて、入ってしまえば気持ちよかった。

 波と遊んでいると、紗奈が隣に来た。

「入ったんだ」

「入りました」

「似合わない」

「なんで」

「なんとなく、陸にいる感じがして」

「失礼だな」

 紗奈は笑った。波が来て、二人同時に少し後ずさった。

 こういう時の紗奈は、表情がいつもより柔らかい。日常の中の紗奈より、ここにいる紗奈の方が、幼い頃の紗奈に近い気がした。

「楽しい?」と悠真が聞いた。

「楽しい」と紗奈はすぐに答えた。「久しぶりに、こういうのもいいね」

「そうだな」

「来てよかった」

 波がまた来た。

 今度は少し大きくて、紗奈がよろけた。悠真が反射的に腕を掴んだ。

 紗奈が悠真の腕を掴んで、体勢を立て直した。

 ほんの二秒くらいのことだった。

 紗奈が「ありがと」と言って、手を離した。

 それだけのことだった。

 でも悠真は、自分の心拍数が少し上がったことに気づいた。

 (気のせいだ)

 波の音が大きかったから、と思うことにした。



 夕方、砂浜に戻って荷物をまとめ始めた頃、悠真は少し離れた場所に一人で座っていた。

 夕日が海に沈みかけていた。

 オレンジと赤と、少しの紫。水平線のあたりだけが燃えているような色をしていた。

 カメラを持ってくればよかった、と今日二度目に思った。

 足音がして、紗奈が来た。

「一人でいた」

「眺めてた」

 紗奈は隣に座った。砂が少し舞った。

 二人で夕日を見た。

 しばらく何も言わなかった。

 波の音だけがあった。

 紗奈が先に口を開いた。

「ねえ、悠真」

「うん」

「橘さんのこと、好きなの?」

 悠真は驚いて紗奈を見た。

 紗奈は夕日を見ていた。こちらを向かなかった。

「どこから出てきたの、その話」

「なんとなく」

「なんとなくって」

「……今日、二人で話してるの見てたから」

 悠真は海を見た。

 どう答えるべきか、考えた。

 好きか、と問われたら。

 玲奈のことを、嫌いではない。話しやすい。写真の話が合う。一緒にいて変に気を使わない。

 でもそれが「好き」かと聞かれたら。

「好きとは違うと思う」と悠真は言った。

「違うと思う、って」

「断言できないのは、好きの種類がいくつかあるから」

「……友達として、は好き?」

「それは好きです」

 紗奈は少し間を置いた。

「恋愛としては?」

「分からない」

「分からないって」

「本当に分からないんだよ」と悠真は言った。「橘さんのことも、そういう目で見たことがないから」

 紗奈は何も言わなかった。

 波がまた来た。

「なんで聞いたの」と悠真が聞いた。

 紗奈はしばらく黙っていた。

 夕日が水平線に近づいていた。空の色がどんどん濃くなっていた。

「……分からない」と紗奈は言った。

「分からないって」

「気になっただけ、かな」

 気になっただけ。

 その言葉を、悠真は心の中で繰り返した。

 紗奈が「気になった」と言った。

 それがどういう意味の「気になった」なのか。

 聞こうとして、やめた。

 聞いたら、何かが動く。

 今日はまだ、動かしたくない。

 「そっか」とだけ悠真は言った。

 紗奈も「うん」とだけ言った。



 帰りの電車の中。

 十二人がバラバラに座った。

 悠真と紗奈は隣の席だった。いつも通りだった。

 紗奈は窓の外を見ていた。流れていく景色を、ずっと見ていた。

 悠真はそんな紗奈の横顔を、見ていた。

 夕日に焼けた頬。少し乾いた髪。窓の光が横から当たって、輪郭がやわらかくなっていた。

 カメラを持ってくればよかった、と三度目に思った。

 でも今度は、写真として残したいからではなかった。

 ただ──この景色を、どこかにとどめておきたかった。

 変わる前の、今この瞬間を。

 紗奈が窓から視線を外して、悠真を見た。

「何見てるの」

「何でもない」

「また」

「また、って」

「悠真、たまに人のこと無言で見てるよね。昔から」

「そうかな」

「そうだよ」と紗奈は言った。少し呆れたような、でもどこか嬉しそうな言い方で。「気持ち悪い」

「ひどい」

 紗奈が笑った。

 悠真も笑った。

 電車は走り続けた。



 その夜。

 紗奈はベッドに横になって、天井を見ていた。

 今日一日を、頭の中で再生していた。

 波に揺れた悠真の横顔。唐揚げを食べていた恒一の間の抜けた顔。夕日と砂浜。

 そして──悠真と玲奈が並んで話していた場面。

 二人の距離は、特別近かったわけじゃない。普通に並んで座って、普通に話していた。

 なのに。

 胸のどこかに、小さな石が落ちたような感覚があった。

 ちゃぽん、という感じで。静かに、でも確かに。

 (気になっただけ、って言った)

 悠真に聞いた時の、自分の言葉を思い出した。

 気になっただけ。

 本当にそれだけか?

 紗奈は目を閉じた。

 考えたくなかった。

 考えてしまったら、名前をつけなければならなくなる。

 名前をつけてしまったら──今の関係が変わってしまう。

 ずっと隣にいてくれた人。

 家族みたいな人。

 親友という言葉では少し足りなくて、でも恋人という言葉は怖すぎて。

 (やめよう)

 紗奈は目を開けた。

 天井を見た。

 何も考えない、と決めた。

 それでも、胸の中の石は、そこにあり続けた。

 小さくて、硬くて、ちゃんとした重さがあった。

 夏が来た最初の夜に、紗奈はその感情に、まだ名前をつけなかった。

 つけたくなかった。

 だからまだ、つけないでいた。