六月に入ると、紗奈の変化はもう少しはっきりとした形を帯び始めていた。
友人からの誘いを断ることが増えた。「ちょっと体調悪くて」「レポートが」
──理由はいつも用意されていたが、本当の理由を、紗奈自身も正確には言葉にできなかった。
ただ、人と話すことに、以前よりずっと多くのエネルギーが必要だった。表面上は普通に振る舞えているつもりだったが、部屋に戻ると、どっと疲れが押し寄せてくる。その疲れの正体が何なのか、紗奈にもよく分からなかった。
同じゼミの友人、佐伯という女子が、紗奈の異変にうっすらと気づき始めていた。
「柊さん、最近ちょっと元気ない?」
「そう見える? 大丈夫だよ」
「そっか、ならいいけど」
それ以上は聞かれなかった。佐伯自身、まだ知り合って二ヶ月の相手に、どこまで踏み込んでいいのか分からなかった。「大丈夫」と言われれば、そう受け取るしかなかった。
これが、高校時代からの付き合いがある悠真や恒一とは違う、新しい人間関係の距離感だった。深く知らない相手だからこそ、「大丈夫」という言葉の裏を疑うことが難しい。
悠真は、写真サークルの活動に少しずつのめり込み始めていた。先輩たちの技術に刺激を受け、撮影に出かける機会も増えていた。
それ自体は、決して悪いことではなかった。悠真自身も進路として選んだ道に、本気で向き合い始めているだけだった。
ただ、その熱中の分だけ、紗奈に向ける意識の総量は、高校時代より確実に減っていた。誰が悪いわけでもない。それぞれが、それぞれの新しい生活に、まっすぐ向き合っていただけだった。
「今週末、撮影合宿あるんだ」
《そうなんだ、頑張って》
《紗奈も、無理しない程度に頑張って》
短いやり取りの後、悠真はすぐにサークルの準備に戻った。紗奈からの返信に、いつもと違う何かが滲んでいたことに、気づく余裕がなかった。
紗奈の部屋。
夜中、紗奈はノートパソコンを閉じて、ベッドに横になった。眠れない夜が増えていた。
天井を見つめながら、紗奈は自分の中にある感覚を、なんとか言葉にしようとしていた。
──寂しい、というのとも違う。
──悲しい、というのとも違う。
ただ、何かが少しずつ、自分の中から抜け落ちていく感覚があった。高校三年生のあの一年間で、時間をかけて積み上げてきたはずの「大丈夫じゃないと言っていい」という感覚が、また遠くなっていた。
母親に電話をかけようか、迷った。悠真に連絡しようか、迷った。
どちらもしなかった。
心配をかけたくない、という気持ちが一番大きかった。でもそれ以上に、「また同じことを繰り返すのか」という、自分自身への苛立ちにも似た感情があった。
──去年、あんなに時間をかけて、いろんな人に助けてもらったのに。
──なのに、また同じところに戻ってきてる。
その思いが、余計に紗奈の口を重くしていた。誰かに助けを求めることが、まるで「成長していない自分」を証明するようで、怖かった。
翌朝、紗奈はいつも通り大学へ向かった。授業に出て、友人と昼食を取り、ゼミに参加した。誰の目にも、普通の大学生に見えていたはずだった。
夜、悠真から届いたメッセージに、紗奈は少し時間をかけて返信した。
《合宿楽しかった。いい写真撮れたと思う》
《おめでとう。見てみたい》
《今度見せる。紗奈は最近どう?》
紗奈は画面を見つめたまま、しばらく指を止めていた。
「つらい」と打とうとして、消した。
代わりに、こう打った。
《普通に元気だよ。レポートに追われてるくらい》
送信した後、紗奈は自分の言葉が、また嘘になっていることに気づいていた。でも、それを訂正する勇気は、今の自分にはなかった。
窓の外、六月の夜は、しっとりとした湿気を含んでいた。もうすぐ梅雨が来る季節だった。
友人からの誘いを断ることが増えた。「ちょっと体調悪くて」「レポートが」
──理由はいつも用意されていたが、本当の理由を、紗奈自身も正確には言葉にできなかった。
ただ、人と話すことに、以前よりずっと多くのエネルギーが必要だった。表面上は普通に振る舞えているつもりだったが、部屋に戻ると、どっと疲れが押し寄せてくる。その疲れの正体が何なのか、紗奈にもよく分からなかった。
同じゼミの友人、佐伯という女子が、紗奈の異変にうっすらと気づき始めていた。
「柊さん、最近ちょっと元気ない?」
「そう見える? 大丈夫だよ」
「そっか、ならいいけど」
それ以上は聞かれなかった。佐伯自身、まだ知り合って二ヶ月の相手に、どこまで踏み込んでいいのか分からなかった。「大丈夫」と言われれば、そう受け取るしかなかった。
これが、高校時代からの付き合いがある悠真や恒一とは違う、新しい人間関係の距離感だった。深く知らない相手だからこそ、「大丈夫」という言葉の裏を疑うことが難しい。
悠真は、写真サークルの活動に少しずつのめり込み始めていた。先輩たちの技術に刺激を受け、撮影に出かける機会も増えていた。
それ自体は、決して悪いことではなかった。悠真自身も進路として選んだ道に、本気で向き合い始めているだけだった。
ただ、その熱中の分だけ、紗奈に向ける意識の総量は、高校時代より確実に減っていた。誰が悪いわけでもない。それぞれが、それぞれの新しい生活に、まっすぐ向き合っていただけだった。
「今週末、撮影合宿あるんだ」
《そうなんだ、頑張って》
《紗奈も、無理しない程度に頑張って》
短いやり取りの後、悠真はすぐにサークルの準備に戻った。紗奈からの返信に、いつもと違う何かが滲んでいたことに、気づく余裕がなかった。
紗奈の部屋。
夜中、紗奈はノートパソコンを閉じて、ベッドに横になった。眠れない夜が増えていた。
天井を見つめながら、紗奈は自分の中にある感覚を、なんとか言葉にしようとしていた。
──寂しい、というのとも違う。
──悲しい、というのとも違う。
ただ、何かが少しずつ、自分の中から抜け落ちていく感覚があった。高校三年生のあの一年間で、時間をかけて積み上げてきたはずの「大丈夫じゃないと言っていい」という感覚が、また遠くなっていた。
母親に電話をかけようか、迷った。悠真に連絡しようか、迷った。
どちらもしなかった。
心配をかけたくない、という気持ちが一番大きかった。でもそれ以上に、「また同じことを繰り返すのか」という、自分自身への苛立ちにも似た感情があった。
──去年、あんなに時間をかけて、いろんな人に助けてもらったのに。
──なのに、また同じところに戻ってきてる。
その思いが、余計に紗奈の口を重くしていた。誰かに助けを求めることが、まるで「成長していない自分」を証明するようで、怖かった。
翌朝、紗奈はいつも通り大学へ向かった。授業に出て、友人と昼食を取り、ゼミに参加した。誰の目にも、普通の大学生に見えていたはずだった。
夜、悠真から届いたメッセージに、紗奈は少し時間をかけて返信した。
《合宿楽しかった。いい写真撮れたと思う》
《おめでとう。見てみたい》
《今度見せる。紗奈は最近どう?》
紗奈は画面を見つめたまま、しばらく指を止めていた。
「つらい」と打とうとして、消した。
代わりに、こう打った。
《普通に元気だよ。レポートに追われてるくらい》
送信した後、紗奈は自分の言葉が、また嘘になっていることに気づいていた。でも、それを訂正する勇気は、今の自分にはなかった。
窓の外、六月の夜は、しっとりとした湿気を含んでいた。もうすぐ梅雨が来る季節だった。



