ベストフレンズ

 五月の連休が明けてから、紗奈の中で、何かが少しずつ変わり始めていた。

 ゼミの課題は問題なくこなせていたし、新しくできた友人ともそれなりに話せていた。傍から見れば、順調な大学生活を送っているように見えたはずだった。

 でも紗奈自身は、自分の内側で何かが少しずつ乾いていくのを感じていた。

──楽しい、と思えない。

──でも、楽しくないと言えば、心配をかける。

 高校三年生のあの一年間、紗奈は「弱さを見せてもいい」ということを、時間をかけて学んだはずだった。悠真に、母親に、少しずつ「つらい」と言えるようになっていた。

 なのに今、その言葉が、また喉の奥に詰まっていた。

「なんで、また言えないんだろう」

 誰もいない部屋で、紗奈は独り言のように呟いた。



 理由は、紗奈自身にもはっきりとは分からなかった。ただ、いくつかの感覚が重なっていた。

 高校時代は、悠真がいつも近くにいた。つらいと言えば、すぐに気づいてもらえる距離だった。今は違う。連絡しなければ、誰も気づかない。

 「連絡して」と言われても、その一歩を踏み出すこと自体が、以前よりずっと重く感じられた。

 それに、恋人になったことで、新しい怖さも生まれていた。

──重いと思われたくない。

──「彼女」なのに、こんなに不安定でいいのだろうか。

 友達だった頃には感じなかった種類のプレッシャーが、紗奈の中に静かに積み重なっていた。



 悠真は、紗奈の些細な変化に気づいていないわけではなかった。

 返信が短くなったこと。既読がついてから返ってくるまでの時間が、少しずつ長くなっていること。

 でも、大学生活が始まったばかりで忙しいのは自分も同じだった。悠真は「新生活の疲れだろう」と、その変化を自分自身に説明していた。

「今度、そっち行っていい?」

 悠真がそう送ると、紗奈からは少し間を置いて返信が来た。

《うん、いいよ。でも今週はちょっと課題が》

《じゃあ来週は?》

《来週も、多分》

 具体的な約束にならないまま、会話は流れていった。悠真はそれを「お互い忙しいから仕方ない」と受け止めていたが、心のどこかで、小さな引っかかりを感じてもいた。



 紗奈の母親も、娘の変化に気づいていた。

 週末に実家に帰ってきた紗奈は、以前より口数が少なかった。食事の量も、心なしか減っているように見えた。

「大学、楽しい?」

「うん、楽しいよ」

 即答だった。あまりにも即答すぎて、母親は逆に不安を覚えた。去年のあの冬、紗奈が「大丈夫」と繰り返していた頃のことを、母親は忘れていなかった。

「無理してない?」

「してないよ。ただ、新しい環境に慣れるのに、ちょっと時間かかってるだけ」

その説明は、もっともらしく聞こえた。母親も、それ以上は踏み込まなかった。「新生活だから仕方ない」──誰もが、そう自分を納得させていた。



 紗奈の下宿先の部屋。

 夜、レポートを書く手が止まって、紗奈はしばらく画面を見つめていた。

 悠真にメッセージを送ろうとして、指が止まる。

「つらい」と打っても、消した。

「会いたい」と打っても、消した。

 代わりに送ったのは、こんな一文だった。

《元気にしてる? そっちも忙しそうだね》

 当たり障りのない言葉。本当に伝えたかったことは、その裏に隠れたまま、画面の向こうには届かなかった。

 悠真からはすぐに返信が来た。

《元気だよ! こっちもバタバタだけど、楽しくやってる》

《紗奈も無理しないでね》

 「無理しないでね」という言葉に、紗奈は小さく笑った。皮肉な笑いだった。無理しているかどうかを、自分でも分からなくなっていた。

 窓の外では、五月の夜が、静かに更けていった。

 誰も悪くなかった。ただ、少しずつ、大切な言葉たちが、届くべき場所に届かなくなっていた。