七月の半ば。
梅雨が明けた。
朝から空が高くて、光が鋭くて、影がくっきりしていた。夏が来た、という感じがした。悠真は登校しながら、空を一度見上げた。こういう光の日は写真が撮りたくなる。コントラストが強くて、何を撮っても絵になる気がするから。
気がするだけで、実際はそうでもないのだけれど。
朝のホームルームの前、玲奈が悠真の席に来た。
「写真部、正式に入ろうと思います」
「決めたんですね」
「はい。西川さんにも話しました」
「いつ話したんですか」
「昨日の放課後に」と玲奈は言った。「朝比奈くんに言う前に、先に部長に確認しようと思って」
「順番が逆な気もするけど」
「そうですか? 筋は通ってると思いますけど」
悠真は少し笑った。
「まあ、そうですね」
「よろしくお願いします」
玲奈はそれだけ言って、自分の席に戻った。
短い会話だった。
でも悠真は、なんとなく嬉しかった。写真の話ができる人間が増えることへの、素直な嬉しさだった。
──そのはずだった。
その日の昼休み。
踊り場に来ると、紗奈がすでに弁当を開けていた。
悠真が座ると、紗奈は顔を上げた。
「橘さん、写真部に入るんだって」
「さっき言ってた」
「クラスで話してたよ」
「そうか」
紗奈は箸でつまんだブロッコリーを見ながら言った。
「悠真が誘ったの?」
「見学の案内はしたけど、決めたのは本人だよ」
「そっか」
紗奈はブロッコリーを食べた。
それ以上は何も言わなかった。
悠真は自分の弁当を開けながら、紗奈の横顔を見た。
いつも通りの顔だった。
いつも通り、だった。
でも──最近、「いつも通り」という言葉を自分に言い聞かせる回数が、少し増えている気がした。
「なんか、気になる?」と悠真は聞いた。
「何が」
「橘さんが写真部に入ること」
紗奈は少し間を置いた。
「別に」
「本当に?」
「何が言いたいの」
「いや、なんとなく」
紗奈は悠真を見た。
「私が気にする理由、ある?」
悠真は答えなかった。
ない、と言えばよかった。でも言えなかった。
「ない、よな」と自分で言った。
「うん」と紗奈は言った。
それで終わりだった。
また他愛ない話が始まった。今日の授業のこと、小テストの結果、来週の予定。
悠真はその会話をしながら、さっきの「うん」が頭の中に残っていた。
肯定の「うん」だった。
それなのになぜか、どこかに小さな棘が刺さったような感覚があった。
放課後、写真部の部室に行くと、玲奈がすでに来ていた。
西川さんに入部届を渡しているところだった。
「改めてよろしく」と西川さんが言った。「自由にやっていい部だから、気楽にね」
「ありがとうございます」と玲奈は答えた。
悠真が入ると、玲奈が振り返った。
「来ましたね」
「来ました」
悠真はロッカーからカメラを出した。今日は外に撮りに行こうと思っていた。夏の光を使いたかった。
「一緒に行きますか」と玲奈が言った。
「外、撮りに行くつもりなんですけど」
「私も行っていいですか。カメラ持ってきました」
玲奈が鞄から取り出したのは、小さなフィルムカメラだった。古いモデルだったが、手入れされていてきれいだった。
「フィルムなんですね」と悠真が言った。
「昔から使ってて。デジタルより好きで」
「なんで」
「失敗できないから」と玲奈は言った。「一枚一枚、ちゃんと考えて撮らないといけないので」
「デジタルの方が気楽じゃないですか」
「気楽すぎると、考えなくなる気がして」
悠真はその言い方を、少し面白いと思った。
自分とは逆の考え方だった。悠真はたくさん撮って、後で選ぶタイプだった。でも玲奈の言う「失敗できないから考える」という感覚は、分かる気もした。
校舎の裏手から、川沿いの道に出た。
夏の午後の光は強くて、木の影が地面に濃く落ちていた。川の水面が光を弾いてきらきらしていた。
悠真は歩きながら撮った。植え込みの影、自動販売機の横に置かれた空き缶、誰かが書いた落書き。
玲奈は立ち止まって撮った。一か所でじっくり構えて、一枚だけ切った。また少し歩いて、立ち止まる。
二人のリズムは違ったが、不思議と邪魔し合わなかった。
しばらくして、ベンチで休んだ。
川が見える場所だった。
「何枚撮りましたか」と悠真が聞いた。
「六枚」
「少ない」
「多いですか?」
「俺はもう四十枚くらい撮ってます」
「すごいですね」
「ほとんど没にするやつですけど」
玲奈はフィルムカメラを膝の上に置いて、川を見た。
「六枚のうち、何枚残るか分からないですけど」と玲奈は言った。「でも全部、ちゃんと撮ったので」
「全部残ればいいですね」
「そうなるといいですけど」
少し沈黙があった。
川の音がした。遠くで子供の声がした。夏の午後の音だった。
「一つ聞いていいですか」と玲奈が言った。
「どうぞ」
「柊さんとは、毎日一緒にいるんですか」
悠真は少し考えた。
「毎日というか……自然にそうなることが多いですね」
「付き合ってるわけじゃないのに?」
「ないです」
「不思議ですね」と玲奈は言った。批判ではなく、純粋に不思議がっている口調だった。「そんなに近くにいるのに、どっちも踏み込まないって」
「踏み込む必要がないというか」
「それとも、踏み込めない?」
悠真は答えなかった。
玲奈は川を見たまま続けた。
「外から見てると、二人の間に見えない線がある感じがします。お互いがその線を、ちゃんと知ってて、超えないようにしてる」
「……そう見えますか」
「そう見えます」
「超えない方がいいと思ってるから、かもしれないです」
「なんで」
「超えたら、何かが変わるから」
「変わることが怖い?」
悠真はしばらく黙った。
川の水面を見た。光が揺れていた。
「怖い、というより」と悠真は言った。「変わった後のことが、想像できないんです。今の形が壊れたら、どうなるのか」
「壊れるとは限らないですよね」と玲奈は言った。
「そうかもしれない。でも壊れるかもしれない」
「それって」と玲奈は少し間を置いた。「変わることへの怖さじゃなくて、失うことへの怖さですよね」
悠真は返事ができなかった。
正確だった。怖いのはそっちだった。変化じゃなくて、喪失。
「そうかもしれないです」とだけ、悠真は言った。
部室に戻った頃には、夕方になっていた。
西川さんはもういなかった。二人で後片付けをして、部室を出た。
廊下を歩きながら、玲奈が言った。
「朝比奈くんって、紗奈さんのことが好きなんだと思います」
悠真は足を止めなかった。止めたら負けな気がした。
「そういう話になりますか」
「なりますよね、あれだけ話したら」
「……好き、という感情が、どういう種類のものか分からなくて」
「友情と恋愛の区別が、ということですか」
「そうです」
「長すぎると分からなくなるんですかね」と玲奈は言った。独り言のような口調で。「最初からそこにいると、それが当たり前になって、感情に名前をつける必要がなくなる」
「そういうことかもしれないです」
「でも」と玲奈は言った。「名前をつけなくても、感情はそこにあるから」
悠真は何も言わなかった。
玲奈もそれ以上は言わなかった。
昇降口まで並んで歩いた。
校門を出たところで、紗奈がいた。
今日は待っていなかった。偶然、帰るタイミングが重なっただけだった。
紗奈は悠真と玲奈が並んで出てきたのを見て、一瞬だけ何かを飲み込んだような顔をした。
本当に一瞬だった。
すぐに普通の顔に戻って、「お疲れ」と言った。
「橘さんも入部したんだって?」と紗奈が玲奈に言った。
「はい。今日から」
「よかったね」
「ありがとうございます」
三人で少し歩いた。玲奈が「こっちなので」と別れていった。
悠真と紗奈が二人になった。
しばらく無言だった。
珍しかった。二人の間に沈黙が不自然に感じられることは、あまりなかった。でも今日の沈黙は、少しだけ質が違う気がした。
「楽しそうだった」と紗奈が言った。
「何が?」
「写真部」
「ああ」と悠真は言った。「まあ、好きなことしてるから」
「橘さんとも話が合うみたいだし」
「写真の話は合いますね」
「そっか」
また沈黙。
信号待ちで並んで立っている間、悠真は紗奈の横顔を盗み見た。
前を向いていた。いつも通りの横顔だった。
でも──どこかに、ほんの少しだけ、いつもと違う何かがあった。
なんと呼べばいいのか、分からなかった。
紗奈自身も、たぶん分かっていない。
信号が青になった。
「今日、電話する?」と悠真が聞いた。
「する」と紗奈は即答した。
その即答が、悠真には少しだけ安心した。
何に安心したのかは、考えないことにした。
その夜。
電話をつないだまま、それぞれの部屋で過ごした。
紗奈はしばらく黙って教科書を読んでいた。
悠真は今日撮った写真を見返していた。四十三枚。その中から、いいと思うものを選んでいく。
十分くらい経って、紗奈が言った。
「ねえ」
「うん」
「橘さんって、どんな子だと思う?」
悠真は手を止めた。
「どんな、というのは」
「性格とか。話してて、どんな感じの子か」
「落ち着いてて、よく見てる子、かな。人のことをちゃんと観察してる感じがある」
「観察」
「悪い意味じゃなくて。空気を読むのが上手い、というか。場の状況を把握するのが自然とできる感じ」
「ふうん」
また、「ふうん」だった。
でも今夜の「ふうん」は昼間のものと少し違った。
考えているような、「ふうん」だった。
「気になる?」と悠真が聞いた。
「別に」と紗奈は言った。「ただ、クラスに新しい子が来たから、どんな子か知りたかっただけ」
「そっか」
「うん」
また沈黙。
電話の向こうで、紗奈がページをめくる音がした。
悠真は写真の選別を再開した。
でも頭の中は半分、別のことを考えていた。
今日、玲奈に言われたことを。
名前をつけなくても、感情はそこにある。
紗奈は、今夜、何かを感じている。
それは悠真には分かった。
十年以上、隣にいた。だから分かる。
ただ──それが何かは、紗奈自身が一番分かっていないのだろうと思った。
名前をつけることを、恐れているから。
それは──悠真も、同じだった。
電話は日付が変わる少し前に切れた。
「おやすみ」と言って、「おやすみ」と返した。
それだけで、今夜は終わった。
悠真はスマホを置いて、天井を見た。
玲奈の言葉と、紗奈の「ふうん」が、頭の中に並んでいた。
どちらも、答えを求めていない言葉だった。
でも確実に、何かを動かしていた。
夏が来た。
悠真は目を閉じた。
答えのないまま、今夜も眠ることにした。
梅雨が明けた。
朝から空が高くて、光が鋭くて、影がくっきりしていた。夏が来た、という感じがした。悠真は登校しながら、空を一度見上げた。こういう光の日は写真が撮りたくなる。コントラストが強くて、何を撮っても絵になる気がするから。
気がするだけで、実際はそうでもないのだけれど。
朝のホームルームの前、玲奈が悠真の席に来た。
「写真部、正式に入ろうと思います」
「決めたんですね」
「はい。西川さんにも話しました」
「いつ話したんですか」
「昨日の放課後に」と玲奈は言った。「朝比奈くんに言う前に、先に部長に確認しようと思って」
「順番が逆な気もするけど」
「そうですか? 筋は通ってると思いますけど」
悠真は少し笑った。
「まあ、そうですね」
「よろしくお願いします」
玲奈はそれだけ言って、自分の席に戻った。
短い会話だった。
でも悠真は、なんとなく嬉しかった。写真の話ができる人間が増えることへの、素直な嬉しさだった。
──そのはずだった。
その日の昼休み。
踊り場に来ると、紗奈がすでに弁当を開けていた。
悠真が座ると、紗奈は顔を上げた。
「橘さん、写真部に入るんだって」
「さっき言ってた」
「クラスで話してたよ」
「そうか」
紗奈は箸でつまんだブロッコリーを見ながら言った。
「悠真が誘ったの?」
「見学の案内はしたけど、決めたのは本人だよ」
「そっか」
紗奈はブロッコリーを食べた。
それ以上は何も言わなかった。
悠真は自分の弁当を開けながら、紗奈の横顔を見た。
いつも通りの顔だった。
いつも通り、だった。
でも──最近、「いつも通り」という言葉を自分に言い聞かせる回数が、少し増えている気がした。
「なんか、気になる?」と悠真は聞いた。
「何が」
「橘さんが写真部に入ること」
紗奈は少し間を置いた。
「別に」
「本当に?」
「何が言いたいの」
「いや、なんとなく」
紗奈は悠真を見た。
「私が気にする理由、ある?」
悠真は答えなかった。
ない、と言えばよかった。でも言えなかった。
「ない、よな」と自分で言った。
「うん」と紗奈は言った。
それで終わりだった。
また他愛ない話が始まった。今日の授業のこと、小テストの結果、来週の予定。
悠真はその会話をしながら、さっきの「うん」が頭の中に残っていた。
肯定の「うん」だった。
それなのになぜか、どこかに小さな棘が刺さったような感覚があった。
放課後、写真部の部室に行くと、玲奈がすでに来ていた。
西川さんに入部届を渡しているところだった。
「改めてよろしく」と西川さんが言った。「自由にやっていい部だから、気楽にね」
「ありがとうございます」と玲奈は答えた。
悠真が入ると、玲奈が振り返った。
「来ましたね」
「来ました」
悠真はロッカーからカメラを出した。今日は外に撮りに行こうと思っていた。夏の光を使いたかった。
「一緒に行きますか」と玲奈が言った。
「外、撮りに行くつもりなんですけど」
「私も行っていいですか。カメラ持ってきました」
玲奈が鞄から取り出したのは、小さなフィルムカメラだった。古いモデルだったが、手入れされていてきれいだった。
「フィルムなんですね」と悠真が言った。
「昔から使ってて。デジタルより好きで」
「なんで」
「失敗できないから」と玲奈は言った。「一枚一枚、ちゃんと考えて撮らないといけないので」
「デジタルの方が気楽じゃないですか」
「気楽すぎると、考えなくなる気がして」
悠真はその言い方を、少し面白いと思った。
自分とは逆の考え方だった。悠真はたくさん撮って、後で選ぶタイプだった。でも玲奈の言う「失敗できないから考える」という感覚は、分かる気もした。
校舎の裏手から、川沿いの道に出た。
夏の午後の光は強くて、木の影が地面に濃く落ちていた。川の水面が光を弾いてきらきらしていた。
悠真は歩きながら撮った。植え込みの影、自動販売機の横に置かれた空き缶、誰かが書いた落書き。
玲奈は立ち止まって撮った。一か所でじっくり構えて、一枚だけ切った。また少し歩いて、立ち止まる。
二人のリズムは違ったが、不思議と邪魔し合わなかった。
しばらくして、ベンチで休んだ。
川が見える場所だった。
「何枚撮りましたか」と悠真が聞いた。
「六枚」
「少ない」
「多いですか?」
「俺はもう四十枚くらい撮ってます」
「すごいですね」
「ほとんど没にするやつですけど」
玲奈はフィルムカメラを膝の上に置いて、川を見た。
「六枚のうち、何枚残るか分からないですけど」と玲奈は言った。「でも全部、ちゃんと撮ったので」
「全部残ればいいですね」
「そうなるといいですけど」
少し沈黙があった。
川の音がした。遠くで子供の声がした。夏の午後の音だった。
「一つ聞いていいですか」と玲奈が言った。
「どうぞ」
「柊さんとは、毎日一緒にいるんですか」
悠真は少し考えた。
「毎日というか……自然にそうなることが多いですね」
「付き合ってるわけじゃないのに?」
「ないです」
「不思議ですね」と玲奈は言った。批判ではなく、純粋に不思議がっている口調だった。「そんなに近くにいるのに、どっちも踏み込まないって」
「踏み込む必要がないというか」
「それとも、踏み込めない?」
悠真は答えなかった。
玲奈は川を見たまま続けた。
「外から見てると、二人の間に見えない線がある感じがします。お互いがその線を、ちゃんと知ってて、超えないようにしてる」
「……そう見えますか」
「そう見えます」
「超えない方がいいと思ってるから、かもしれないです」
「なんで」
「超えたら、何かが変わるから」
「変わることが怖い?」
悠真はしばらく黙った。
川の水面を見た。光が揺れていた。
「怖い、というより」と悠真は言った。「変わった後のことが、想像できないんです。今の形が壊れたら、どうなるのか」
「壊れるとは限らないですよね」と玲奈は言った。
「そうかもしれない。でも壊れるかもしれない」
「それって」と玲奈は少し間を置いた。「変わることへの怖さじゃなくて、失うことへの怖さですよね」
悠真は返事ができなかった。
正確だった。怖いのはそっちだった。変化じゃなくて、喪失。
「そうかもしれないです」とだけ、悠真は言った。
部室に戻った頃には、夕方になっていた。
西川さんはもういなかった。二人で後片付けをして、部室を出た。
廊下を歩きながら、玲奈が言った。
「朝比奈くんって、紗奈さんのことが好きなんだと思います」
悠真は足を止めなかった。止めたら負けな気がした。
「そういう話になりますか」
「なりますよね、あれだけ話したら」
「……好き、という感情が、どういう種類のものか分からなくて」
「友情と恋愛の区別が、ということですか」
「そうです」
「長すぎると分からなくなるんですかね」と玲奈は言った。独り言のような口調で。「最初からそこにいると、それが当たり前になって、感情に名前をつける必要がなくなる」
「そういうことかもしれないです」
「でも」と玲奈は言った。「名前をつけなくても、感情はそこにあるから」
悠真は何も言わなかった。
玲奈もそれ以上は言わなかった。
昇降口まで並んで歩いた。
校門を出たところで、紗奈がいた。
今日は待っていなかった。偶然、帰るタイミングが重なっただけだった。
紗奈は悠真と玲奈が並んで出てきたのを見て、一瞬だけ何かを飲み込んだような顔をした。
本当に一瞬だった。
すぐに普通の顔に戻って、「お疲れ」と言った。
「橘さんも入部したんだって?」と紗奈が玲奈に言った。
「はい。今日から」
「よかったね」
「ありがとうございます」
三人で少し歩いた。玲奈が「こっちなので」と別れていった。
悠真と紗奈が二人になった。
しばらく無言だった。
珍しかった。二人の間に沈黙が不自然に感じられることは、あまりなかった。でも今日の沈黙は、少しだけ質が違う気がした。
「楽しそうだった」と紗奈が言った。
「何が?」
「写真部」
「ああ」と悠真は言った。「まあ、好きなことしてるから」
「橘さんとも話が合うみたいだし」
「写真の話は合いますね」
「そっか」
また沈黙。
信号待ちで並んで立っている間、悠真は紗奈の横顔を盗み見た。
前を向いていた。いつも通りの横顔だった。
でも──どこかに、ほんの少しだけ、いつもと違う何かがあった。
なんと呼べばいいのか、分からなかった。
紗奈自身も、たぶん分かっていない。
信号が青になった。
「今日、電話する?」と悠真が聞いた。
「する」と紗奈は即答した。
その即答が、悠真には少しだけ安心した。
何に安心したのかは、考えないことにした。
その夜。
電話をつないだまま、それぞれの部屋で過ごした。
紗奈はしばらく黙って教科書を読んでいた。
悠真は今日撮った写真を見返していた。四十三枚。その中から、いいと思うものを選んでいく。
十分くらい経って、紗奈が言った。
「ねえ」
「うん」
「橘さんって、どんな子だと思う?」
悠真は手を止めた。
「どんな、というのは」
「性格とか。話してて、どんな感じの子か」
「落ち着いてて、よく見てる子、かな。人のことをちゃんと観察してる感じがある」
「観察」
「悪い意味じゃなくて。空気を読むのが上手い、というか。場の状況を把握するのが自然とできる感じ」
「ふうん」
また、「ふうん」だった。
でも今夜の「ふうん」は昼間のものと少し違った。
考えているような、「ふうん」だった。
「気になる?」と悠真が聞いた。
「別に」と紗奈は言った。「ただ、クラスに新しい子が来たから、どんな子か知りたかっただけ」
「そっか」
「うん」
また沈黙。
電話の向こうで、紗奈がページをめくる音がした。
悠真は写真の選別を再開した。
でも頭の中は半分、別のことを考えていた。
今日、玲奈に言われたことを。
名前をつけなくても、感情はそこにある。
紗奈は、今夜、何かを感じている。
それは悠真には分かった。
十年以上、隣にいた。だから分かる。
ただ──それが何かは、紗奈自身が一番分かっていないのだろうと思った。
名前をつけることを、恐れているから。
それは──悠真も、同じだった。
電話は日付が変わる少し前に切れた。
「おやすみ」と言って、「おやすみ」と返した。
それだけで、今夜は終わった。
悠真はスマホを置いて、天井を見た。
玲奈の言葉と、紗奈の「ふうん」が、頭の中に並んでいた。
どちらも、答えを求めていない言葉だった。
でも確実に、何かを動かしていた。
夏が来た。
悠真は目を閉じた。
答えのないまま、今夜も眠ることにした。



