七月に入ると、学校の空気が少し変わった。
文化祭まで二ヶ月。早い話だと思うかもしれないが、この学校では七月から準備が始まる。クラスの出し物を決めて、役割を決めて、少しずつ形にしていく。その過程が、この学校の文化祭の半分だった。
悠真はそういう行事が嫌いではなかった。
得意でもないけれど、みんなで何かをやっている時間の、あの雑然とした感じが、わりと好きだった。
ホームルームで出し物の案出しをした。
黒板に書かれた候補は七つ。お化け屋敷、喫茶店、謎解き脱出ゲーム、縁日、映画上映、展示、ゲームセンター。
意見が飛び交う中、悠真は後ろの席でノートに落書きをしながら聞いていた。
前の席の恒一が振り返った。
「悠真はどれがいい?」
「なんでもいい」
「そういう答え、一番困るんだよなー」
「お化け屋敷は毎年どこかがやるから被るだろ」
「じゃあ喫茶店?」
「料理できる人がどれだけいるかによる」
「現実的なこと言うね」
恒一は前に向き直って、「喫茶店はどうですかー」と挙手した。クラスの反応は悪くなかった。
紗奈は前から三番目の席で、議論の流れをノートにまとめていた。クラス委員ではないのに、こういう時に自然と記録係になる。昔からそういう人だった。
玲奈は窓際の席で静かに聞いていた。
意見は言わない。でも話の流れをちゃんと追っている。その目が、悠真にはなんとなく分かった。
結局、クラスの出し物は「縁日風喫茶店」になった。
フランクフルトとジュース類を提供しながら、縁日ゲームのコーナーも設ける、という折衷案だった。誰が言い出したのか分からないが、なぜかクラス全体がそれで納得した。
放課後、準備の担当決めが始まった。
調理班、装飾班、ゲーム班、広報班。
悠真は広報班に入った。ポスターやPOPを作る担当だ。写真部だからという理由で半ば自動的に決まった。
紗奈は調理班の取りまとめになった。これも自動的に、だった。「紗奈なら任せられる」という空気が自然に生まれる。クラスの中でそういうポジションに収まっていた。
玲奈は装飾班に入った。
自分から「こっちにします」と言った。初めて自分から意見を言った瞬間だった。
最初の広報班のミーティングは、図書室の隅の机でやった。
メンバーは四人。悠真と、クラスの女子二人と──それから玲奈だった。
「橘さん、広報じゃなかったっけ」と悠真が言うと、
「装飾と兼任することになりました」と玲奈は答えた。「写真素材を使いたいって装飾班が言って、それで」
「なるほど」
結果的に、悠真と玲奈が一緒に作業する時間が生まれた。
特に意識したわけではなかった。ただそうなった、という話だった。
ミーティングでは、ポスターのデザイン案を出し合った。
玲奈は手元のノートに、さらさらとレイアウトを描いた。
手慣れていた。
「デザイン、やったことあるんですか」と悠真が聞いた。
「前の学校で似たようなことをやったので」
「センスありますね」
「褒めすぎです」と玲奈は言ったが、否定はしなかった。
女子二人が玲奈のデザイン案を「かわいい」「これがいい」と盛り上がっている間、悠真は自分のカメラを取り出した。
「素材写真、俺が撮ってもいいですか」
「お願いしたいです」と玲奈が言った。「どんな写真が欲しいか、相談しながら決めましょう」
「じゃあ後で話しましょうか」
「はい」
自然な流れだった。
仕事上の話し合い。それだけのことだった。
ミーティングが終わって、女子二人が先に帰った。
図書室に悠真と玲奈が残った。
窓から夕方の光が入っていた。本棚が長い影を作っている。
悠真はカメラを持ち直して、何気なく窓の方向にレンズを向けた。
シャッターを切った。
「今のは?」と玲奈が聞いた。
「光がよかったので」
「ポスター用じゃないんですね」
「これは自分用です。ポスター用は別途ちゃんと撮ります」
玲奈は少し考えてから言った。
「撮ってもらえますか、私を」
悠真は玲奈を見た。
「いいですけど……なんで急に」
「前の学校でも写真部の人に撮ってもらったことがあって」と玲奈は言った。「その写真が今も好きで。転校する前の自分の記録みたいな感じで」
「記録」
「はい。今ここにいた、っていう証明みたいな」
悠真はカメラを構えた。
ファインダー越しに玲奈を見た。
玲奈は窓の方を向いていた。カメラを意識していない顔。夕方の光が横から当たっていた。
悠真はシャッターを切った。
一枚。
それから玲奈がこちらを向いた。
「撮れましたか」
「撮れました」
「見せてもらえますか」
悠真は液晶を向けた。
玲奈は自分の写真を見て、少しの間黙っていた。
「どうですか」と悠真が聞いた。
「……きれいに撮ってもらいましたね」と玲奈は言った。「でも」
「でも?」
「なんか、遠い感じがします。ちゃんと写ってるのに、遠い」
悠真は自分が撮った写真をもう一度見た。
確かにそうかもしれなかった。技術的には悪くない。光もいい。でも何か、距離がある。
「俺、人物撮るの苦手で」と悠真は言った。「近づけないんですよね、被写体に」
「なんで」
「踏み込む感じがして」
玲奈は少し考えてから言った。
「写真は踏み込まないと、伝わらないこともあると思います」
「そうなんでしょうね」
「朝比奈くんって、写真以外でも、そういうところありますか」
悠真は答えなかった。
答えられなかった、という方が正確だった。
玲奈はそれ以上追わなかった。
「ごめんなさい、また変なこと聞いて」
「いや」と悠真は言った。「否定できないので」
玲奈はわずかに笑った。
「正直ですね、やっぱり」
「そこだけは」
帰り際、廊下で紗奈に会った。
調理班のミーティングが長引いたらしく、紗奈は少し疲れた顔をしていた。
「終わった?」と悠真が聞いた。
「やっと。メニューでもめて」
「何がもめたの」
「フランクフルトの種類。誰かがチーズ入りにしたいって言い出して」
「どうなったの」
「両方やることになった。面倒くさい」
そう言いながらも、紗奈の口元は少し緩んでいた。文句を言いながら楽しんでいる。そういう顔だった。
玲奈が横にいることに、紗奈が気づいた。
「橘さんも広報だったんですね」
「兼任で」と玲奈は答えた。
「大変じゃないですか」
「大丈夫です。やることが決まってる方が楽なので」
紗奈は少し意外そうな顔をした。
「そういうタイプなんですね」
「そうみたいです」
短い会話だった。
でも悠真は、その短い会話の中で、二人がちゃんとお互いを見ていることに気づいた。
値踏みとか、警戒とか、そういうものじゃない。ただ──確認している感じ。
どういう人なのか、を。
三人で昇降口まで歩いた。
校門のところで、玲奈は「こっちなので」と言って別の方向へ歩いていった。
悠真と紗奈が並んで歩き始める。
少し経って、紗奈が言った。
「橘さんって、大人っぽいね」
「そう思う?」
「うん。なんか、ちゃんと考えてから話す感じがして」
「転校が多いらしいから」
「そっか」
紗奈はしばらく黙った。
信号待ちの間、空を見上げた。七月の夜前の空は、まだ明るさが残っていた。
「悠真って、橘さんと話しやすい?」
「話しやすいと思う。なんか、変に気を使わなくていい感じがして」
「ふうん」
また、「ふうん」だった。
悠真はその「ふうん」の意味を考えた。
聞こうとして、やめた。
聞いたら、何かが動く気がした。
信号が青になった。
二人は並んで渡った。
悠真の二歩分くらい先に、夕方の自分たちの影が伸びていた。
その夜、悠真はさっき撮った写真を見返した。
玲奈の写真。光がきれいで、でも遠い写真。
それから、過去の写真フォルダを遡った。
気づいたら、紗奈が写っている写真を探していた。
たくさんあった。意識して撮ったものより、何かの拍子に画面の端に入っていたものの方が多かった。
笑っている顔。本を読んでいる横顔。コンビニのレジの前で財布を探している後ろ姿。
全部、本人には撮ったと言っていない写真だった。
(踏み込む感じがして)
玲奈に言った言葉が、頭の中で繰り返された。
被写体に近づけない。
写真の話だった。
でも、それだけの話ではないのかもしれない。
悠真はスマホを伏せた。
天井を見た。
いつもの白い天井。いつもの染み。
答えのない問いを抱えたまま、今夜も眠れなくなりそうだと思った。
文化祭まで二ヶ月。早い話だと思うかもしれないが、この学校では七月から準備が始まる。クラスの出し物を決めて、役割を決めて、少しずつ形にしていく。その過程が、この学校の文化祭の半分だった。
悠真はそういう行事が嫌いではなかった。
得意でもないけれど、みんなで何かをやっている時間の、あの雑然とした感じが、わりと好きだった。
ホームルームで出し物の案出しをした。
黒板に書かれた候補は七つ。お化け屋敷、喫茶店、謎解き脱出ゲーム、縁日、映画上映、展示、ゲームセンター。
意見が飛び交う中、悠真は後ろの席でノートに落書きをしながら聞いていた。
前の席の恒一が振り返った。
「悠真はどれがいい?」
「なんでもいい」
「そういう答え、一番困るんだよなー」
「お化け屋敷は毎年どこかがやるから被るだろ」
「じゃあ喫茶店?」
「料理できる人がどれだけいるかによる」
「現実的なこと言うね」
恒一は前に向き直って、「喫茶店はどうですかー」と挙手した。クラスの反応は悪くなかった。
紗奈は前から三番目の席で、議論の流れをノートにまとめていた。クラス委員ではないのに、こういう時に自然と記録係になる。昔からそういう人だった。
玲奈は窓際の席で静かに聞いていた。
意見は言わない。でも話の流れをちゃんと追っている。その目が、悠真にはなんとなく分かった。
結局、クラスの出し物は「縁日風喫茶店」になった。
フランクフルトとジュース類を提供しながら、縁日ゲームのコーナーも設ける、という折衷案だった。誰が言い出したのか分からないが、なぜかクラス全体がそれで納得した。
放課後、準備の担当決めが始まった。
調理班、装飾班、ゲーム班、広報班。
悠真は広報班に入った。ポスターやPOPを作る担当だ。写真部だからという理由で半ば自動的に決まった。
紗奈は調理班の取りまとめになった。これも自動的に、だった。「紗奈なら任せられる」という空気が自然に生まれる。クラスの中でそういうポジションに収まっていた。
玲奈は装飾班に入った。
自分から「こっちにします」と言った。初めて自分から意見を言った瞬間だった。
最初の広報班のミーティングは、図書室の隅の机でやった。
メンバーは四人。悠真と、クラスの女子二人と──それから玲奈だった。
「橘さん、広報じゃなかったっけ」と悠真が言うと、
「装飾と兼任することになりました」と玲奈は答えた。「写真素材を使いたいって装飾班が言って、それで」
「なるほど」
結果的に、悠真と玲奈が一緒に作業する時間が生まれた。
特に意識したわけではなかった。ただそうなった、という話だった。
ミーティングでは、ポスターのデザイン案を出し合った。
玲奈は手元のノートに、さらさらとレイアウトを描いた。
手慣れていた。
「デザイン、やったことあるんですか」と悠真が聞いた。
「前の学校で似たようなことをやったので」
「センスありますね」
「褒めすぎです」と玲奈は言ったが、否定はしなかった。
女子二人が玲奈のデザイン案を「かわいい」「これがいい」と盛り上がっている間、悠真は自分のカメラを取り出した。
「素材写真、俺が撮ってもいいですか」
「お願いしたいです」と玲奈が言った。「どんな写真が欲しいか、相談しながら決めましょう」
「じゃあ後で話しましょうか」
「はい」
自然な流れだった。
仕事上の話し合い。それだけのことだった。
ミーティングが終わって、女子二人が先に帰った。
図書室に悠真と玲奈が残った。
窓から夕方の光が入っていた。本棚が長い影を作っている。
悠真はカメラを持ち直して、何気なく窓の方向にレンズを向けた。
シャッターを切った。
「今のは?」と玲奈が聞いた。
「光がよかったので」
「ポスター用じゃないんですね」
「これは自分用です。ポスター用は別途ちゃんと撮ります」
玲奈は少し考えてから言った。
「撮ってもらえますか、私を」
悠真は玲奈を見た。
「いいですけど……なんで急に」
「前の学校でも写真部の人に撮ってもらったことがあって」と玲奈は言った。「その写真が今も好きで。転校する前の自分の記録みたいな感じで」
「記録」
「はい。今ここにいた、っていう証明みたいな」
悠真はカメラを構えた。
ファインダー越しに玲奈を見た。
玲奈は窓の方を向いていた。カメラを意識していない顔。夕方の光が横から当たっていた。
悠真はシャッターを切った。
一枚。
それから玲奈がこちらを向いた。
「撮れましたか」
「撮れました」
「見せてもらえますか」
悠真は液晶を向けた。
玲奈は自分の写真を見て、少しの間黙っていた。
「どうですか」と悠真が聞いた。
「……きれいに撮ってもらいましたね」と玲奈は言った。「でも」
「でも?」
「なんか、遠い感じがします。ちゃんと写ってるのに、遠い」
悠真は自分が撮った写真をもう一度見た。
確かにそうかもしれなかった。技術的には悪くない。光もいい。でも何か、距離がある。
「俺、人物撮るの苦手で」と悠真は言った。「近づけないんですよね、被写体に」
「なんで」
「踏み込む感じがして」
玲奈は少し考えてから言った。
「写真は踏み込まないと、伝わらないこともあると思います」
「そうなんでしょうね」
「朝比奈くんって、写真以外でも、そういうところありますか」
悠真は答えなかった。
答えられなかった、という方が正確だった。
玲奈はそれ以上追わなかった。
「ごめんなさい、また変なこと聞いて」
「いや」と悠真は言った。「否定できないので」
玲奈はわずかに笑った。
「正直ですね、やっぱり」
「そこだけは」
帰り際、廊下で紗奈に会った。
調理班のミーティングが長引いたらしく、紗奈は少し疲れた顔をしていた。
「終わった?」と悠真が聞いた。
「やっと。メニューでもめて」
「何がもめたの」
「フランクフルトの種類。誰かがチーズ入りにしたいって言い出して」
「どうなったの」
「両方やることになった。面倒くさい」
そう言いながらも、紗奈の口元は少し緩んでいた。文句を言いながら楽しんでいる。そういう顔だった。
玲奈が横にいることに、紗奈が気づいた。
「橘さんも広報だったんですね」
「兼任で」と玲奈は答えた。
「大変じゃないですか」
「大丈夫です。やることが決まってる方が楽なので」
紗奈は少し意外そうな顔をした。
「そういうタイプなんですね」
「そうみたいです」
短い会話だった。
でも悠真は、その短い会話の中で、二人がちゃんとお互いを見ていることに気づいた。
値踏みとか、警戒とか、そういうものじゃない。ただ──確認している感じ。
どういう人なのか、を。
三人で昇降口まで歩いた。
校門のところで、玲奈は「こっちなので」と言って別の方向へ歩いていった。
悠真と紗奈が並んで歩き始める。
少し経って、紗奈が言った。
「橘さんって、大人っぽいね」
「そう思う?」
「うん。なんか、ちゃんと考えてから話す感じがして」
「転校が多いらしいから」
「そっか」
紗奈はしばらく黙った。
信号待ちの間、空を見上げた。七月の夜前の空は、まだ明るさが残っていた。
「悠真って、橘さんと話しやすい?」
「話しやすいと思う。なんか、変に気を使わなくていい感じがして」
「ふうん」
また、「ふうん」だった。
悠真はその「ふうん」の意味を考えた。
聞こうとして、やめた。
聞いたら、何かが動く気がした。
信号が青になった。
二人は並んで渡った。
悠真の二歩分くらい先に、夕方の自分たちの影が伸びていた。
その夜、悠真はさっき撮った写真を見返した。
玲奈の写真。光がきれいで、でも遠い写真。
それから、過去の写真フォルダを遡った。
気づいたら、紗奈が写っている写真を探していた。
たくさんあった。意識して撮ったものより、何かの拍子に画面の端に入っていたものの方が多かった。
笑っている顔。本を読んでいる横顔。コンビニのレジの前で財布を探している後ろ姿。
全部、本人には撮ったと言っていない写真だった。
(踏み込む感じがして)
玲奈に言った言葉が、頭の中で繰り返された。
被写体に近づけない。
写真の話だった。
でも、それだけの話ではないのかもしれない。
悠真はスマホを伏せた。
天井を見た。
いつもの白い天井。いつもの染み。
答えのない問いを抱えたまま、今夜も眠れなくなりそうだと思った。



