ベストフレンズ

 写真部の部室は、旧校舎の二階にた。

 新校舎と渡り廊下でつながってはいるが、床の軋み方が違う。窓枠の色が違う。空気の重さが違う。新しい建物には染みつかない時間の厚みが、旧校舎にはある。

 悠真はそこが好きだった。

 理由を言葉にしたことはないけれど、カメラを持ってここに来ると、何かが少し落ち着く感じがした。

 放課後。

 部室のドアを開けると、先輩の西川さんが引き伸ばし機の前で作業していた。三年生で、写真部の部長だ。小柄で静かな人で、悠真が一年の時に入部を決めたのも、この人が

「好きなもの撮ればいいよ」と言ったからだった。

「朝比奈、今日見学者来るって聞いたよ」

「はい。転校生なんですけど」

「橘さんだっけ。城島先生から話が来てた」と西川さんは手元を見たまま言った。「ちゃんと案内してあげて」

「分かりました」

 悠真は自分のロッカーを開けて、カメラを取り出した。

 中古で買ったミラーレス一眼。ボディに小さな傷がある。レンズを付け替えながら、窓の外を見た。

 グラウンドでは野球部が練習している。声が遠く聞こえる。西の空に薄い雲がかかっていて、光が柔らかく拡散していた。

 (今日は光がいい)

 そういうことに気づく感覚だけは、少し磨かれてきた気がする。撮るのが上手いかどうかは、まだよく分からないけれど。

 十五分ほどして、ドアがノックされた。

「失礼します」

 橘玲奈が入ってきた。

 昨日と同じセーラー服。髪も同じように結んでいる。ただ昨日より少し表情が柔らかかった。教室で転校生として見られている時の、あの慎重な顔とは少し違う。

「来たね」と悠真は言った。

「はい。お邪魔します」

 西川さんが振り返って、「どうぞ」と短く言った。玲奈は軽く頭を下げた。

 悠真は部室の中を簡単に説明した。引き伸ばし機、現像用の薬品棚、作品を貼るためのボード。デジタルとフィルムの両方が使える環境で、好みで選べること。活動は週三回で、強制はないこと。

「発表の場はあるんですか」と玲奈が聞いた。

「秋に学内展示があります。あとは文化祭」

「文化祭でも?」

「展示コーナーを持てるので。去年は十二点出しました」

 玲奈は部室の壁に貼られた写真を見て回った。

 先輩たちの作品が並んでいる。風景、人物、建物、光。悠真が撮った写真も何枚かある。隅の方に貼ってある、川沿いの夕方を撮ったやつ。

 玲奈はそこで少し立ち止まった。

「これ、誰が撮ったんですか」

「俺です」

「……川ですか」

「学校の近くを流れてる川で」

 玲奈はその写真を少しの間見ていた。何かを考えているのか、ただ見ているだけなのか、悠真には分からなかった。

「水面の光が、きれいですね」と玲奈は言った。

「光が良かっただけで、俺はあんまり上手く撮れてないと思ってます」

「それって本音ですか」

「本音です」

 玲奈はわずかに笑った。

「正直なんですね」

「そうでもないですよ」

 言ってから、悠真は少し思った。

 自分は本当に正直なのか。

 写真については正直に言える。でも他のことは──どうだろう。

 しばらくして、玲奈が聞いた。

「朝比奈くんは、何を撮るのが好きですか」

「人、ですかね」

「人物?」

「人、というか——人がいる場所の空気、みたいなもの」

 うまく言えないな、と思いながら続けた。

「誰かがいた痕跡とか、人と人の間の空間とか。そういうのが好きで」

「具体的には?」

「例えば、誰かが置いていったコップとか。使いかけの消しゴムとか。さっきまで誰かがいたのに、今はいないっていう場所の空気」

 玲奈は少し考えるような間を置いた。

「それって……人がいない写真なんですね」

「そうなりますね。でも人のことを撮ってる感じがするんですよね、自分では」

「不思議な感覚ですね」

「他の人には分からないって言われます」

「私には少し分かります」

 悠真は思わず玲奈の顔を見た。

 玲奈は壁の写真を見ながら言った。

「いなくなった後の方が、その人のことがよく分かることって、あると思うから」

 悠真は返す言葉を考えたが、何も言わなかった。

 何かを返すより、そのままにしておく方がいい気がした。

 一時間ほどで見学は終わった。

 玲奈は「入部を考えます」と言って部室を出た。

 悠真も荷物をまとめて廊下に出ると、玲奈がまだ廊下の窓の前に立っていた。

 外を見ている。

「待ってたんですか」

「少しだけ」と玲奈は言った。「一つ、聞いてもいいですか」

「はい」

「柊さんって、朝比奈くんの彼女ですか」

 直球だった。

 悠真は一瞬答えに詰まった。

「違います」

「幼なじみ、ですよね」

「そうです」

「仲いいですよね」

「……まあ」

 玲奈は窓の外を向いたまま言った。

「クラスで見てて思ったんですけど」

「何を」

「朝比奈くん、柊さんのことを見る時と、他の人を見る時、目が違います」

 悠真は何も言えなかった。

「気づいてないんですか」と玲奈が聞いた。

「……自分では分からないです」

「そうですか」

 玲奈はそこで初めて、窓から悠真の方へ視線を向けた。

「聞いてごめんなさい。転校初日に変なこと言いました」

「いや」

「ただ、気になったので」

 悠真は廊下の床を一度見て、また玲奈を見た。

「橘さんって、人のこと、よく見るんですね」

「昔からそういうところがあって」と玲奈は言った。「転校が多かったので。新しい場所で、まず周りを見る癖がついてるんだと思います」

「転校、多いんですか」

「三回目です、今回で」

「それは……慣れましたか」

「慣れる、というより──慣れないことに慣れた感じです」

 その言い方が、悠真には少し刺さった。

 慣れないことに慣れる。

 それがどういう感覚なのか、悠真には正確には分からなかった。でも、何かが伝わってきた気がした。

「また話しましょう」と悠真は言った。

「はい」と玲奈は答えた。

 昇降口を出ると、紗奈が待っていた。

 スマホを見ながら壁にもたれている。悠真が近づくと顔を上げた。

「遅かった」

「見学の案内してた」

「転校生?」

「うん」

 紗奈はスマホをしまいながら、何気なく聞いた。

「どうだった?」

「落ち着いた子だよ。話しやすい」

「そう」

 また、「そう」だった。

 悠真はそれ以上言わなかった。

 並んで歩き始める。いつもの道。いつもの距離。

 (橘さんに言われたことを、紗奈に話すべきか)

 考えた。

 やめた。

 話すとしたら何と言う。「お前のことを見る時、目が違うって言われた」──それを言ったら、何かが変わる気がした。

 変わることが怖いのか、変わりたくないのか、それも分からない。

 ただ、今日の帰り道は、このままでいい。

 そう思った。

「明日、小テストあるよ」と紗奈が言った。

「化学?」

「英語」

「勉強してない」

「知ってた」と紗奈はため息をついた。

「帰ったらやって」

「一緒にやる?」

「今日はそれぞれでやろ。電話しながらでもいいけど」

「じゃあそれで」

 他愛ない会話が続いた。

 六月の夕方。光が斜めになって、二人の影が道路に長く伸びた。

 悠真はその影を見ながら思った。

 玲奈が言っていた言葉。

朝比奈くん、柊さんのことを見る時と、他の人を見る時、目が違います。

 気づいてない、と答えた。

 本当に気づいていないのか。

 分からない、と答えた方が、正確だったかもしれない。

 ──でも、もし分かってしまったら。

 悠真は考えるのをやめた。

 隣を歩く紗奈が、「何か考えてる?」と聞いた。

「別に」と悠真は答えた。

「そう」

 それだけで、紗奈はそれ以上聞かなかった。

 そういうところが─と悠真は思った。

 そういうところが、ずるいとも言えるし、優しいとも言える。

 何と呼べばいいのか、悠真にはまだ分からなかった。

 その夜。
 
 電話をしながら英語の問題集を解いた。

 互いにほとんど無言で、ページをめくる音と、ペンの音だけが聞こえていた。

 たまに紗奈が「これ分かる?」と聞いて、悠真が答えて、また静かになる。

 ただそれだけのやり取り。

 でも悠真は、その無音の時間が好きだった。

 電話の向こうに紗奈がいる、ただそれだけで、なんとなく落ち着けた。

 (これが、友情なのか)

 自分でも笑えるような問いを、一人で繰り返す。

 答えは出なかった。

 今夜も、出なかった。