三月の終わりが近づいていた。
高校二年生の最後の週。
紗奈の状態は、劇的には変わっていなかった。
でも、少しずつ違ってきていることが、悠真には分かった。
返信が来る時間が、少し早くなった。
廊下で目が合ったとき、笑うまでの間が、少し短くなった。
食堂で、以前より少し多く食べていた。
大きなことは何もない。でも小さなことが、確かに積み重なっていた。
終業式の前日。
放課後の教室に、紗奈と二人だけが残った。
紗奈が窓を開けると、春の匂いのする風が入ってきた。
「明日で二年生終わりだね」
紗奈が言った。
「そうだな」
「なんか、長かったような、短かったような」
「うん」
紗奈は窓枠に肘をついて、外を見た。
「六月から、ずっとしんどかった気がする」
悠真は何も言わなかった。
「気づいてたでしょ」
「……うん」
「いつ頃から?」
悠真は少し考えた。
「夏休みの前くらいから、なんか違うなって」
「そんなに前から」
「でも何も言えなかった。言い方が分からなくて」
紗奈は外を見たまま、「そっか」と言った。
「俺こそ、気づいてたのに何もできなくてごめん」
紗奈は首を振った。
「悠真のせいじゃない。私が言えなかっただけだから」
「でも」
「二人とも、下手だったんだよ」紗奈が言った。「私は弱さを隠すのが上手くて、悠真は踏み込むのが怖くて。お互いに」
悠真は紗奈の横顔を見た。
「……そうだな」
「でも、悠真が電話に出てくれた。それだけで、何回か、朝が来た」
風が教室を通り抜けた。
悠真は何も言えなかった。
言葉にしたら、何か大事なものが崩れそうな気がした。
しばらくして、紗奈が言った。
「三年生、怖いな」
「受験のこと?」
「それもあるけど……また壊れるのが怖い」
悠真は頷いた。
「また壊れそうになったら、言えそう?」
「……前よりは、言えると思う」
「俺にじゃなくてもいい。お母さんでも、先生でも」
「うん」紗奈は少し笑った。「悠真にも言うけど」
「それでいい」
「悠真は?」
「俺は?」
「しんどくなったとき、誰かに言える?」
悠真は少し驚いた。
紗奈に聞き返されるとは思っていなかった。
「……恒一には、少し言えるようになった」
「良かった」紗奈が言った。「悠真がしんどくなっても、私は嫌じゃないから」
「重さと嫌さは違う、ってやつか」
「そう。自分で言ったんだから、ちゃんと受け取って」
悠真は笑った。
久しぶりに、力の抜けた笑い方だった。
帰り道。
いつもの川沿いを、並んで歩いた。
桜の蕾が、少しだけ色づき始めていた。
「咲くの、今年は早いかもな」
悠真が言った。
「見に来る?」
「来る」
「お花見、みんなでしたいな」
「恒一が絶対うるさくする」
「それがいいんじゃない」
紗奈が笑った。
さっきより少し、厚みのある笑い方だった。
家の前で別れる前に、紗奈が立ち止まった。
「悠真」
「うん」
「冬、ありがとう」
悠真はしばらく紗奈を見た。
「俺は電話に出てただけだよ」
「それが良かったんだって、もう知ってるでしょ」
悠真は答えなかった。
ただ「また明日」と言った。
「うん」と紗奈が言った。
その夜。
悠真はカメラを持って、窓から外を撮った。
暗い空に、街の光が滲んでいた。
まだ冬の匂いが残っていたけれど、どこかに春の気配があった。
完璧な写真じゃなかった。
でも、今夜の空はこれだった。
それでいいと思えた。
高校二年生の最後の週。
紗奈の状態は、劇的には変わっていなかった。
でも、少しずつ違ってきていることが、悠真には分かった。
返信が来る時間が、少し早くなった。
廊下で目が合ったとき、笑うまでの間が、少し短くなった。
食堂で、以前より少し多く食べていた。
大きなことは何もない。でも小さなことが、確かに積み重なっていた。
終業式の前日。
放課後の教室に、紗奈と二人だけが残った。
紗奈が窓を開けると、春の匂いのする風が入ってきた。
「明日で二年生終わりだね」
紗奈が言った。
「そうだな」
「なんか、長かったような、短かったような」
「うん」
紗奈は窓枠に肘をついて、外を見た。
「六月から、ずっとしんどかった気がする」
悠真は何も言わなかった。
「気づいてたでしょ」
「……うん」
「いつ頃から?」
悠真は少し考えた。
「夏休みの前くらいから、なんか違うなって」
「そんなに前から」
「でも何も言えなかった。言い方が分からなくて」
紗奈は外を見たまま、「そっか」と言った。
「俺こそ、気づいてたのに何もできなくてごめん」
紗奈は首を振った。
「悠真のせいじゃない。私が言えなかっただけだから」
「でも」
「二人とも、下手だったんだよ」紗奈が言った。「私は弱さを隠すのが上手くて、悠真は踏み込むのが怖くて。お互いに」
悠真は紗奈の横顔を見た。
「……そうだな」
「でも、悠真が電話に出てくれた。それだけで、何回か、朝が来た」
風が教室を通り抜けた。
悠真は何も言えなかった。
言葉にしたら、何か大事なものが崩れそうな気がした。
しばらくして、紗奈が言った。
「三年生、怖いな」
「受験のこと?」
「それもあるけど……また壊れるのが怖い」
悠真は頷いた。
「また壊れそうになったら、言えそう?」
「……前よりは、言えると思う」
「俺にじゃなくてもいい。お母さんでも、先生でも」
「うん」紗奈は少し笑った。「悠真にも言うけど」
「それでいい」
「悠真は?」
「俺は?」
「しんどくなったとき、誰かに言える?」
悠真は少し驚いた。
紗奈に聞き返されるとは思っていなかった。
「……恒一には、少し言えるようになった」
「良かった」紗奈が言った。「悠真がしんどくなっても、私は嫌じゃないから」
「重さと嫌さは違う、ってやつか」
「そう。自分で言ったんだから、ちゃんと受け取って」
悠真は笑った。
久しぶりに、力の抜けた笑い方だった。
帰り道。
いつもの川沿いを、並んで歩いた。
桜の蕾が、少しだけ色づき始めていた。
「咲くの、今年は早いかもな」
悠真が言った。
「見に来る?」
「来る」
「お花見、みんなでしたいな」
「恒一が絶対うるさくする」
「それがいいんじゃない」
紗奈が笑った。
さっきより少し、厚みのある笑い方だった。
家の前で別れる前に、紗奈が立ち止まった。
「悠真」
「うん」
「冬、ありがとう」
悠真はしばらく紗奈を見た。
「俺は電話に出てただけだよ」
「それが良かったんだって、もう知ってるでしょ」
悠真は答えなかった。
ただ「また明日」と言った。
「うん」と紗奈が言った。
その夜。
悠真はカメラを持って、窓から外を撮った。
暗い空に、街の光が滲んでいた。
まだ冬の匂いが残っていたけれど、どこかに春の気配があった。
完璧な写真じゃなかった。
でも、今夜の空はこれだった。
それでいいと思えた。



