三月に入った。
高校二年生の終わりが、静かに近づいていた。
紗奈の状態は、回復しているとも言い切れなかった。
薬が少し合ってきたのか、朝が極端に怖い日は減っていた。でも代わりに、別の感覚が出てきていた。
何もかもが、薄い。
嬉しいことがあっても、どこか膜越しに感じる。悲しくもない。楽しくもない。ただ、そこにいる。
紗奈はそれを先生に話した。
「感情が平らになった感じがする」
先生は「それも薬の影響のひとつかもしれない。もう少し様子を見ましょう」と言った。
ある放課後。
悠真が教室に迎えに行くと、紗奈は窓際の席に一人で座っていた。
周りの席はもう空で、夕日が床に長く伸びていた。
「紗奈」
「……あ、悠真」
気づいていなかった。
「帰ろう」
「うん」と言って、紗奈は立ち上がった。でも動作がどこかゆっくりで、まるで水の中にいるみたいだった。
廊下を歩きながら、悠真は何も聞かなかった。
階段を降りて、昇降口で靴を履き替えて、外に出た。
「寒いね」と紗奈が言った。
「うん」と悠真が答えた。
それだけだった。
帰り道の途中、紗奈が立ち止まった。
「悠真」
「うん」
「私、このままでいいのかな」
悠真は紗奈を見た。
「このまま、って?」
「よく分からない。ただ……毎日が全部、同じ感じがする。怖くはなくなったけど、嬉しくもない」
「先生には話した?」
「話した。薬のせいかもって」
「そっか」
悠真は少し考えてから言った。
「感情が薄くなってるのは、今は体が休もうとしてるからかもしれない」
「……そうなのかな」
「分からないけど。でも、怖い朝が減ったのは本当だろ」
紗奈は「うん」と言った。
確信のない「うん」だったけれど、否定ではなかった。
その夜。
悠真のスマホに、紗奈からメッセージが届いた。
時刻は深夜一時を過ぎていた。
「悠真、起きてる?」
「起きてる」
すぐに返した。
しばらく間があった。
「消えたい、って思った」
悠真は息を止めた。
「今も?」
「……分からない。さっきより薄くなってきた気がする」
「自分を傷つけたいとか、そういう気持ちはある?」
「ない。ただ、消えたかった」
「今、部屋にいる?」
「うん」
「お母さんはいる?」
「いる、下に」
悠真は一度深呼吸した。
「お母さんの部屋に行ける? 今夜だけでいい」
長い沈黙があった。
「……こんな時間に?」
「こんな時間でも、お母さんは紗奈のお母さんだから」
また沈黙。
「怖い」
「何が怖い?」
「心配させること。泣かせること」
「心配させていい。それがお母さんだから」
しばらくして、紗奈から短いメッセージが来た。
「行ってみる」
「うん、行って」
十分ほど経って、また届いた。
「お母さんの部屋にいる。一緒に寝てもいいって言ってくれた」
悠真は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
「よかった」
「……うん」
「明日、クリニックに連絡して。今夜のこと話してほしい」
「分かった」
「約束できる?」
少しの間があった。
「……できる」
「うん。おやすみ、紗奈」
「おやすみ。ありがとう」
悠真はスマホを置いて、天井を見た。
消えたい、という言葉が頭の中で繰り返された。
怖かった。
でも今夜、紗奈はお母さんの部屋に行った。
一人じゃなかった。
それだけを、今夜の灯りにした。
翌朝、悠真は学校へ行く前に恒一に短いメッセージを送った。
「紗奈のこと、心配してる。また話せるか」
すぐに返ってきた。
「放課後、いつでも」
悠真は「ありがとう」と返した。
支えるためには、自分も誰かに支えてもらわなければいけない。
それが少しずつ、分かってきていた。
高校二年生の終わりが、静かに近づいていた。
紗奈の状態は、回復しているとも言い切れなかった。
薬が少し合ってきたのか、朝が極端に怖い日は減っていた。でも代わりに、別の感覚が出てきていた。
何もかもが、薄い。
嬉しいことがあっても、どこか膜越しに感じる。悲しくもない。楽しくもない。ただ、そこにいる。
紗奈はそれを先生に話した。
「感情が平らになった感じがする」
先生は「それも薬の影響のひとつかもしれない。もう少し様子を見ましょう」と言った。
ある放課後。
悠真が教室に迎えに行くと、紗奈は窓際の席に一人で座っていた。
周りの席はもう空で、夕日が床に長く伸びていた。
「紗奈」
「……あ、悠真」
気づいていなかった。
「帰ろう」
「うん」と言って、紗奈は立ち上がった。でも動作がどこかゆっくりで、まるで水の中にいるみたいだった。
廊下を歩きながら、悠真は何も聞かなかった。
階段を降りて、昇降口で靴を履き替えて、外に出た。
「寒いね」と紗奈が言った。
「うん」と悠真が答えた。
それだけだった。
帰り道の途中、紗奈が立ち止まった。
「悠真」
「うん」
「私、このままでいいのかな」
悠真は紗奈を見た。
「このまま、って?」
「よく分からない。ただ……毎日が全部、同じ感じがする。怖くはなくなったけど、嬉しくもない」
「先生には話した?」
「話した。薬のせいかもって」
「そっか」
悠真は少し考えてから言った。
「感情が薄くなってるのは、今は体が休もうとしてるからかもしれない」
「……そうなのかな」
「分からないけど。でも、怖い朝が減ったのは本当だろ」
紗奈は「うん」と言った。
確信のない「うん」だったけれど、否定ではなかった。
その夜。
悠真のスマホに、紗奈からメッセージが届いた。
時刻は深夜一時を過ぎていた。
「悠真、起きてる?」
「起きてる」
すぐに返した。
しばらく間があった。
「消えたい、って思った」
悠真は息を止めた。
「今も?」
「……分からない。さっきより薄くなってきた気がする」
「自分を傷つけたいとか、そういう気持ちはある?」
「ない。ただ、消えたかった」
「今、部屋にいる?」
「うん」
「お母さんはいる?」
「いる、下に」
悠真は一度深呼吸した。
「お母さんの部屋に行ける? 今夜だけでいい」
長い沈黙があった。
「……こんな時間に?」
「こんな時間でも、お母さんは紗奈のお母さんだから」
また沈黙。
「怖い」
「何が怖い?」
「心配させること。泣かせること」
「心配させていい。それがお母さんだから」
しばらくして、紗奈から短いメッセージが来た。
「行ってみる」
「うん、行って」
十分ほど経って、また届いた。
「お母さんの部屋にいる。一緒に寝てもいいって言ってくれた」
悠真は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
「よかった」
「……うん」
「明日、クリニックに連絡して。今夜のこと話してほしい」
「分かった」
「約束できる?」
少しの間があった。
「……できる」
「うん。おやすみ、紗奈」
「おやすみ。ありがとう」
悠真はスマホを置いて、天井を見た。
消えたい、という言葉が頭の中で繰り返された。
怖かった。
でも今夜、紗奈はお母さんの部屋に行った。
一人じゃなかった。
それだけを、今夜の灯りにした。
翌朝、悠真は学校へ行く前に恒一に短いメッセージを送った。
「紗奈のこと、心配してる。また話せるか」
すぐに返ってきた。
「放課後、いつでも」
悠真は「ありがとう」と返した。
支えるためには、自分も誰かに支えてもらわなければいけない。
それが少しずつ、分かってきていた。



