一月の終わり。
予約した日は、曇った木曜日だった。
悠真は由美子さんに頼まれて、紗奈を迎えに行った。
玄関に出てきた紗奈は、コートのボタンを一番上まで留めていた。
顔色は白かった。
「行こうか」
「……うん」
二人で並んで歩いた。
紗奈は何も話さなかった。悠真も何も話さなかった。
ただ隣にいた。
バスに乗って、二十分。
紗奈が窓の外を見続けていたから、悠真も同じ方向を見ていた。
曇り空の下、街が流れていった。
クリニックは、駅から少し入った静かな通りにあった。
白い建物で、入り口に小さな観葉植物が置いてあった。
紗奈が自動ドアの前で立ち止まった。
「……入れるかな」
「一緒に入ろう」
受付まで二人で歩いた。
紗奈が名前を告げた。声が少し震えていた。
受付の人は穏やかな声で「お待ちください」と言って、特に何も聞かなかった。
待合室には、二人しかいなかった。
悠真と紗奈は並んで座った。
壁に貼られたポスター。小さな水槽。微かに流れる音楽。
紗奈の手が、膝の上で白くなっていた。
悠真はそっと、その手の上に自分の手を置いた。
何も言わなかった。
紗奈も何も言わなかった。
ただ、手を離さなかった。
しばらくして、名前が呼ばれた。
紗奈が立ち上がった。
「行ってくる」
「うん」
「……ちゃんと話せるかな」
「全部話さなくていい。今日しんどいって、それだけでもいい」
紗奈は小さく頷いて、廊下の奥へ消えた。
悠真は待合室に一人残された。
三十分以上、待った。
悠真はスマホを見る気になれなかった。
ただ椅子に座って、水槽の小さな魚を見ていた。
紗奈が今、何を話しているのか分からない。
うまく話せているのか分からない。
泣いているのか分からない。
分からないまま、ここにいることしかできなかった。
それが悠真には、もどかしくもあり、でも今の自分の場所だとも感じていた。
紗奈が戻ってきた。
目が少し赤かった。
「終わった」
「うん、お疲れ」
「……泣いた」
「うん」
「恥ずかしかった」
「全然」
紗奈は少しだけ笑った。
目が赤いままの、でも確かな笑顔だった。
「また来ることになった。二週間後」
「そっか」
「先生、怖くなかった」
「よかった」
紗奈は出口に向かって歩き出して、途中で振り返った。
「来てくれてありがとう」
「俺は待ってただけだよ」
「それが良かったんだよ」
帰りのバスで、紗奈は行きより少しだけ柔らかく見えた。
窓の外を見ていたのは同じだったけれど、今度は景色を見ている感じがした。
「話せた?」と悠真は聞かなかった。
紗奈が話したければ話すと思ったから。
しばらくして、紗奈の方から言った。
「朝が怖いってこと、話した。消えたいとは違うけど、消えていたいって気持ちがあること」
「うん」
「先生が、それは苦しかったねって言ってくれた」
「……うん」
「責めなかった。弱いとも言わなかった」
悠真は窓の外を見たまま、頷いた。
「良かった」
「うん」と紗奈が言った。
バスが街を走った。曇り空が、少しだけ明るくなっていた。
家の前まで送って、悠真が帰ろうとしたとき、紗奈が言った。
「悠真」
「うん」
「まだ全然、大丈夫じゃないけど」
「うん」
「でも今日、来て良かった」
悠真は紗奈を見た。
コートのボタンを一番上まで留めたまま、白い顔で、でもちゃんとそこに立っていた。
「来て良かったって思えたなら、それで十分だよ今日は」
紗奈は頷いた。
「また二週間後も、来てくれる?」
「来るよ」
「……ありがとう」
玄関の扉が閉まった。
悠真はしばらくそこに立っていた。
寒かった。
でも、足が動かなかった。
扉の向こうに紗奈がいて、今日紗奈は一歩踏み出して、泣いて、怖くなかったと言った。
それだけのことが、悠真には今日、全てだった。
予約した日は、曇った木曜日だった。
悠真は由美子さんに頼まれて、紗奈を迎えに行った。
玄関に出てきた紗奈は、コートのボタンを一番上まで留めていた。
顔色は白かった。
「行こうか」
「……うん」
二人で並んで歩いた。
紗奈は何も話さなかった。悠真も何も話さなかった。
ただ隣にいた。
バスに乗って、二十分。
紗奈が窓の外を見続けていたから、悠真も同じ方向を見ていた。
曇り空の下、街が流れていった。
クリニックは、駅から少し入った静かな通りにあった。
白い建物で、入り口に小さな観葉植物が置いてあった。
紗奈が自動ドアの前で立ち止まった。
「……入れるかな」
「一緒に入ろう」
受付まで二人で歩いた。
紗奈が名前を告げた。声が少し震えていた。
受付の人は穏やかな声で「お待ちください」と言って、特に何も聞かなかった。
待合室には、二人しかいなかった。
悠真と紗奈は並んで座った。
壁に貼られたポスター。小さな水槽。微かに流れる音楽。
紗奈の手が、膝の上で白くなっていた。
悠真はそっと、その手の上に自分の手を置いた。
何も言わなかった。
紗奈も何も言わなかった。
ただ、手を離さなかった。
しばらくして、名前が呼ばれた。
紗奈が立ち上がった。
「行ってくる」
「うん」
「……ちゃんと話せるかな」
「全部話さなくていい。今日しんどいって、それだけでもいい」
紗奈は小さく頷いて、廊下の奥へ消えた。
悠真は待合室に一人残された。
三十分以上、待った。
悠真はスマホを見る気になれなかった。
ただ椅子に座って、水槽の小さな魚を見ていた。
紗奈が今、何を話しているのか分からない。
うまく話せているのか分からない。
泣いているのか分からない。
分からないまま、ここにいることしかできなかった。
それが悠真には、もどかしくもあり、でも今の自分の場所だとも感じていた。
紗奈が戻ってきた。
目が少し赤かった。
「終わった」
「うん、お疲れ」
「……泣いた」
「うん」
「恥ずかしかった」
「全然」
紗奈は少しだけ笑った。
目が赤いままの、でも確かな笑顔だった。
「また来ることになった。二週間後」
「そっか」
「先生、怖くなかった」
「よかった」
紗奈は出口に向かって歩き出して、途中で振り返った。
「来てくれてありがとう」
「俺は待ってただけだよ」
「それが良かったんだよ」
帰りのバスで、紗奈は行きより少しだけ柔らかく見えた。
窓の外を見ていたのは同じだったけれど、今度は景色を見ている感じがした。
「話せた?」と悠真は聞かなかった。
紗奈が話したければ話すと思ったから。
しばらくして、紗奈の方から言った。
「朝が怖いってこと、話した。消えたいとは違うけど、消えていたいって気持ちがあること」
「うん」
「先生が、それは苦しかったねって言ってくれた」
「……うん」
「責めなかった。弱いとも言わなかった」
悠真は窓の外を見たまま、頷いた。
「良かった」
「うん」と紗奈が言った。
バスが街を走った。曇り空が、少しだけ明るくなっていた。
家の前まで送って、悠真が帰ろうとしたとき、紗奈が言った。
「悠真」
「うん」
「まだ全然、大丈夫じゃないけど」
「うん」
「でも今日、来て良かった」
悠真は紗奈を見た。
コートのボタンを一番上まで留めたまま、白い顔で、でもちゃんとそこに立っていた。
「来て良かったって思えたなら、それで十分だよ今日は」
紗奈は頷いた。
「また二週間後も、来てくれる?」
「来るよ」
「……ありがとう」
玄関の扉が閉まった。
悠真はしばらくそこに立っていた。
寒かった。
でも、足が動かなかった。
扉の向こうに紗奈がいて、今日紗奈は一歩踏み出して、泣いて、怖くなかったと言った。
それだけのことが、悠真には今日、全てだった。



