十二月になった。
空気が乾いて、息が白くなった。
廊下を歩くと、窓から見える校庭に霜が降りていた。
冬休みまで、あと三週間。
クラス全体が、少しずつ浮き足立ち始めていた。
悠真が最初に気づいたのは、小さなことだった。
昼食のとき、紗奈の食べる量が減っていた。
いつもは弁当を全部食べる紗奈が、半分ほど残していた。
「食欲ない?」
「ちょっと」
「体調悪い?」
「そういうわけじゃない」
紗奈はそう言って、箸を置いた。
それだけだった。
悠真はそれ以上聞けなかった。
次に気づいたのは、返信の速さだった。
以前は数分以内に返ってきていたメッセージが、一時間、二時間と間が空くようになった。
内容は普通だった。
短いけど、普通のことが書いてある。
でも、どこかが薄かった。
文字の向こうに、紗奈がいる感じが、少し遠くなっていた。
水曜日の放課後。
廊下で紗奈を見かけた。
一人で窓の外を見ていた。
声をかけようとして、悠真は足を止めた。
紗奈の表情が、いつもと違った。
何かを考えているわけでも、落ち込んでいるわけでも、ない。
ただ、何もない顔をしていた。
窓の外を見ながら、何も見ていないような顔。
「紗奈」
振り返った紗奈は、一瞬だけ、戻るのに時間がかかった。
「……あ、悠真」
「何してた?」
「なんとなく、立ってた」
「そっか」
悠真は紗奈の隣に立った。
外を見ると、グラウンドに夕陽が当たっていた。
特別な景色じゃない。
でも、紗奈はここで、しばらく一人でこれを見ていたのだと思った。
「帰ろうか」
「……うん」
紗奈は素直に頷いた。
いつもなら「もう少し待って」とか「鞄取ってくる」とか、何か言う。
今日は、ただ頷いた。
それが、悠真にはなんとなく引っかかった。
帰り道、二人はほとんど話さなかった。
以前の沈黙は、お互いに満ちていた。
今日の沈黙は、紗奈の方が空洞みたいだった。
「最近、眠れてる?」
悠真が聞いた。
「眠れてる」
「本当に?」
「眠れてるよ」
紗奈は答えたが、悠真の方を見なかった。
「勉強、詰めすぎてない?」
「大丈夫」
「無理してない?」
「してない」
一言ずつ、返ってくる。
でも、それぞれの言葉が、少し遠い。
悠真は何を聞けばいいのか分からなくなってきた。
「紗奈、何かあった?」
紗奈は少し歩みを緩めた。
「ない」
「ないって言っても、なんか、様子が違う気がして」
「大げさ」
「大げさじゃないと思う」
紗奈は前を向いたまま、少しだけ黙った。
「……ただ、疲れてるだけ」
「休めてる?」
「休んでも、疲れが取れない感じがする」
その言葉を、悠真は軽く流せなかった。
「それって、ちゃんと休めてないってことじゃ」
「違う。ただの季節的なものだと思う」
紗奈は少し笑った。
でも、その笑い方が、いつもと少し違った。
口だけで笑っていた。
曲がり角で、紗奈が立ち止まった。
「悠真」
「うん」
「心配してくれてるの、分かる」
「うん」
「でも、大丈夫だから」
悠真は紗奈を見た。
「大丈夫じゃなくなったら、言える?」
紗奈は少し間を置いた。
「……言えたら、言う」
「言えたら、じゃなくて」
「悠真」
紗奈は静かな声で言った。
「今は、大丈夫って言わせて」
その言葉の意味を、悠真はうまく受け取れなかった。
大丈夫だから、そう言っているのか。
大丈夫じゃないけど、そう言わせてほしいのか。
「……分かった」
悠真は頷いた。
「でも、いつでも言っていい」
「うん」
「俺は、ちゃんと聞く」
紗奈はそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
泣きそうな顔ではなかった。
でも、何かをこらえているみたいな顔だった。
「おやすみ」
「おやすみ」
紗奈は曲がり角を曲がった。
今日は、振り返らなかった。
家に帰って、悠真はスマートフォンを持ったまま、しばらく動けなかった。
何か送ろうとして、何も思いつかなかった。
今日話せてよかった。
送ろうとして、やめた。
よかった、という言葉が、今夜の紗奈に合わない気がした。
無理しないで。
それも、やめた。
無理してないと言っていた紗奈に、それを送ることが正しいのか分からなかった。
結局、悠真はただ一言だけ送った。
おやすみ。
既読がついたのは、一時間後だった。
返信はなかった。
悠真は恒一に電話した。
三コールで出た。
「どした、珍しい」
「ちょっと聞いていい?」
「おう」
「紗奈のこと、最近どう思う?」
恒一は少し間を置いた。
「……なんかあった?」
「あったというか、なんか、様子が気になって」
「俺も、ちょっと思ってた」
悠真は少し驚いた。
「恒一も?」
「なんか、笑う回数が減った気がして。気のせいかと思ってたけど」
「俺もそう感じてた」
電話の向こうで、恒一が少し考えているのが分かった。
「声、かけてみたら?」
「かけてる。でも、大丈夫って言う」
「……そっか」
「どうすればいいんだろ」
恒一はしばらく黙ってから、言った。
「分からないけど、遠ざからない方がいいと思う。向こうが大丈夫って言っても、近くにいることは、できるから」
悠真はその言葉を、ゆっくり受け取った。
「うん」
「答えになってないかもしれないけど」
「なってる」
その夜、悠真はなかなか眠れなかった。
紗奈の「今は、大丈夫って言わせて」という言葉が、ずっと頭に残っていた。
大丈夫、と言いたい。
それが紗奈の、今の精一杯なのかもしれない。
だとしたら、悠真にできることは何か。
答えは出なかった。
でも、遠ざからないことだけは、決めた。
──十二月の空気は乾いていて、何もかもが少しずつ、音もなく削られていくようだった。
紗奈の笑顔が、以前より一枚、薄くなっていた。
悠真はそれに気づきながら、どう手を伸ばせばいいのか、まだ分からないでいた。
空気が乾いて、息が白くなった。
廊下を歩くと、窓から見える校庭に霜が降りていた。
冬休みまで、あと三週間。
クラス全体が、少しずつ浮き足立ち始めていた。
悠真が最初に気づいたのは、小さなことだった。
昼食のとき、紗奈の食べる量が減っていた。
いつもは弁当を全部食べる紗奈が、半分ほど残していた。
「食欲ない?」
「ちょっと」
「体調悪い?」
「そういうわけじゃない」
紗奈はそう言って、箸を置いた。
それだけだった。
悠真はそれ以上聞けなかった。
次に気づいたのは、返信の速さだった。
以前は数分以内に返ってきていたメッセージが、一時間、二時間と間が空くようになった。
内容は普通だった。
短いけど、普通のことが書いてある。
でも、どこかが薄かった。
文字の向こうに、紗奈がいる感じが、少し遠くなっていた。
水曜日の放課後。
廊下で紗奈を見かけた。
一人で窓の外を見ていた。
声をかけようとして、悠真は足を止めた。
紗奈の表情が、いつもと違った。
何かを考えているわけでも、落ち込んでいるわけでも、ない。
ただ、何もない顔をしていた。
窓の外を見ながら、何も見ていないような顔。
「紗奈」
振り返った紗奈は、一瞬だけ、戻るのに時間がかかった。
「……あ、悠真」
「何してた?」
「なんとなく、立ってた」
「そっか」
悠真は紗奈の隣に立った。
外を見ると、グラウンドに夕陽が当たっていた。
特別な景色じゃない。
でも、紗奈はここで、しばらく一人でこれを見ていたのだと思った。
「帰ろうか」
「……うん」
紗奈は素直に頷いた。
いつもなら「もう少し待って」とか「鞄取ってくる」とか、何か言う。
今日は、ただ頷いた。
それが、悠真にはなんとなく引っかかった。
帰り道、二人はほとんど話さなかった。
以前の沈黙は、お互いに満ちていた。
今日の沈黙は、紗奈の方が空洞みたいだった。
「最近、眠れてる?」
悠真が聞いた。
「眠れてる」
「本当に?」
「眠れてるよ」
紗奈は答えたが、悠真の方を見なかった。
「勉強、詰めすぎてない?」
「大丈夫」
「無理してない?」
「してない」
一言ずつ、返ってくる。
でも、それぞれの言葉が、少し遠い。
悠真は何を聞けばいいのか分からなくなってきた。
「紗奈、何かあった?」
紗奈は少し歩みを緩めた。
「ない」
「ないって言っても、なんか、様子が違う気がして」
「大げさ」
「大げさじゃないと思う」
紗奈は前を向いたまま、少しだけ黙った。
「……ただ、疲れてるだけ」
「休めてる?」
「休んでも、疲れが取れない感じがする」
その言葉を、悠真は軽く流せなかった。
「それって、ちゃんと休めてないってことじゃ」
「違う。ただの季節的なものだと思う」
紗奈は少し笑った。
でも、その笑い方が、いつもと少し違った。
口だけで笑っていた。
曲がり角で、紗奈が立ち止まった。
「悠真」
「うん」
「心配してくれてるの、分かる」
「うん」
「でも、大丈夫だから」
悠真は紗奈を見た。
「大丈夫じゃなくなったら、言える?」
紗奈は少し間を置いた。
「……言えたら、言う」
「言えたら、じゃなくて」
「悠真」
紗奈は静かな声で言った。
「今は、大丈夫って言わせて」
その言葉の意味を、悠真はうまく受け取れなかった。
大丈夫だから、そう言っているのか。
大丈夫じゃないけど、そう言わせてほしいのか。
「……分かった」
悠真は頷いた。
「でも、いつでも言っていい」
「うん」
「俺は、ちゃんと聞く」
紗奈はそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
泣きそうな顔ではなかった。
でも、何かをこらえているみたいな顔だった。
「おやすみ」
「おやすみ」
紗奈は曲がり角を曲がった。
今日は、振り返らなかった。
家に帰って、悠真はスマートフォンを持ったまま、しばらく動けなかった。
何か送ろうとして、何も思いつかなかった。
今日話せてよかった。
送ろうとして、やめた。
よかった、という言葉が、今夜の紗奈に合わない気がした。
無理しないで。
それも、やめた。
無理してないと言っていた紗奈に、それを送ることが正しいのか分からなかった。
結局、悠真はただ一言だけ送った。
おやすみ。
既読がついたのは、一時間後だった。
返信はなかった。
悠真は恒一に電話した。
三コールで出た。
「どした、珍しい」
「ちょっと聞いていい?」
「おう」
「紗奈のこと、最近どう思う?」
恒一は少し間を置いた。
「……なんかあった?」
「あったというか、なんか、様子が気になって」
「俺も、ちょっと思ってた」
悠真は少し驚いた。
「恒一も?」
「なんか、笑う回数が減った気がして。気のせいかと思ってたけど」
「俺もそう感じてた」
電話の向こうで、恒一が少し考えているのが分かった。
「声、かけてみたら?」
「かけてる。でも、大丈夫って言う」
「……そっか」
「どうすればいいんだろ」
恒一はしばらく黙ってから、言った。
「分からないけど、遠ざからない方がいいと思う。向こうが大丈夫って言っても、近くにいることは、できるから」
悠真はその言葉を、ゆっくり受け取った。
「うん」
「答えになってないかもしれないけど」
「なってる」
その夜、悠真はなかなか眠れなかった。
紗奈の「今は、大丈夫って言わせて」という言葉が、ずっと頭に残っていた。
大丈夫、と言いたい。
それが紗奈の、今の精一杯なのかもしれない。
だとしたら、悠真にできることは何か。
答えは出なかった。
でも、遠ざからないことだけは、決めた。
──十二月の空気は乾いていて、何もかもが少しずつ、音もなく削られていくようだった。
紗奈の笑顔が、以前より一枚、薄くなっていた。
悠真はそれに気づきながら、どう手を伸ばせばいいのか、まだ分からないでいた。



