十一月になった。
廊下に進路希望調査票が貼り出されて、三年生が慌ただしくなった。
二年生にとってはまだ一年ある。
でも、「一年しかない」という空気が、じわじわと教室に入ってきていた。
火曜日のホームルーム。
担任が「二年生も早めに意識しておくように」と言った。
誰かが「まだ早くないですか」と言って、笑いが起きた。
紗奈は笑わなかった。
ノートに何か書いていた。
悠真はその横顔を見た。
昼休み、紗奈が「ちょっといい?」と言った。
二人で、空いている教室に移った。
窓から校庭が見える、いつもと違う場所。
「進路のこと、決まってきた」
紗奈が言った。
「もう?」
「ずっと考えてたから」
悠真は紗奈を見た。
「どこ?」
「T大の文学部」
悠真は少し間を置いた。
T大。
この街から、電車で二時間以上かかる。
一人暮らしが前提になる距離。
「……すごいな」
「まだ受かってない」
「受かるだろ、紗奈なら」
「分からない」
紗奈は窓の外を見た。
「悠真は?」
「俺は……まだ、はっきりしてない」
「写真、続けたいんでしょ」
「うん」
「なら、芸術系?」
「考えてる。でも、親がどう思うか」
紗奈は少し頷いた。
しばらく、二人とも黙った。
校庭で、体育の授業をしている生徒たちの声が聞こえた。
「離れるね」
紗奈が言った。
声のトーンは、平坦だった。
でも、その平坦さの中に何かが混じっていることを、悠真は感じた。
「離れても、連絡する。言っただろ」
「うん」
「信じてないの?」
「信じてる」
「じゃあ」
「でも」
紗奈は窓の外を見たまま、続けた。
「信じてても、怖いことってあるじゃん」
悠真は何も言えなかった。
「悠真がいなくなったとき、私がどうなるか。自分でも分からなくて」
「いなくなるわけじゃない」
「毎日いないのは、いないのと似てる」
その言葉が、静かに刺さった。
放課後、悠真は一人で写真部に行った。
玲奈がいた。
窓際でフィルムの整理をしていた。
「顔色、悪いですよ」
「そう?」
「何かあった?」
悠真はカメラバッグを置いて、椅子に座った。
「紗奈が、T大志望だって」
玲奈は手を止めた。
「遠い?」
「二時間以上」
「そっか」
玲奈はフィルムの整理を再開した。
「悠真はどうしたい?」
「どうって」
「紗奈さんと、同じ方向を向きたい?」
悠真は少し考えた。
「紗奈の邪魔はしたくない」
「それは答えじゃない」
玲奈は静かに言った。
「紗奈さんの邪魔をしない、は紗奈さんのこと。悠真がどうしたいか、は別の話」
悠真は黙った。
「自分の進路を、紗奈さんに合わせるつもりがあるかどうか。それを聞いてる」
「……合わせたい、とは思う」
「思う、だけ?」
「できるかどうか、分からない」
玲奈はフィルムを箱に収めた。
「正直でいい。でも、紗奈さんにも、そのままを伝えた方がいいと思う」
「怖がらせたくない」
「怖がらせることと、正直でいることは、別のことだと思う」
悠真は玲奈を見た。
玲奈は穏やかな顔で、続けた。
「紗奈さん、最近どう?」
「……少し、疲れてるみたいで」
「勉強?」
「それだけじゃない気がして」
玲奈は少し間を置いた。
「ちゃんと見ててあげて」
「うん」
「見てる、じゃなくて、声をかけてあげて」
「……違う?」
「見てるだけだと、相手には伝わらないから」
夜、悠真は紗奈に電話した。
三コールで出た。
『なに』
「なんとなく、声が聞きたくて」
少しの沈黙。
『……変なの』
「そうかな」
『そうだよ』
でも、電話を切らなかった。
しばらく、お互いに特別なことを話さなかった。
今日の授業のこと。
夕飯のこと。
明日の天気のこと。
他愛ない話が続いた。
悠真はその声を聞きながら、今日の紗奈の言葉を思い返していた。
悠真がいなくなったとき、私がどうなるか。
その言葉の重さを、悠真はまだうまく受け止められていなかった。
でも、今夜は声が聞けた。
それだけで、少し安心した。
「紗奈」
『うん』
「無理してたら、言えよ」
少しの間があった。
『……言えたら言う』
「言えなくても、顔見れば分かるから」
『過信しすぎ』
「十年以上の付き合いだから」
紗奈は小さく笑った。
その笑い声が、今夜は少し疲れているように聞こえた。
悠真はそれに気づいて、でも指摘しなかった。
指摘することが、正しいのかどうか、分からなかったから。
──冬が来る前から、何かが少しずつ重くなっていた。
悠真はそれに気づいていた。
でも、どう支えればいいのか、まだ分からなかった。
廊下に進路希望調査票が貼り出されて、三年生が慌ただしくなった。
二年生にとってはまだ一年ある。
でも、「一年しかない」という空気が、じわじわと教室に入ってきていた。
火曜日のホームルーム。
担任が「二年生も早めに意識しておくように」と言った。
誰かが「まだ早くないですか」と言って、笑いが起きた。
紗奈は笑わなかった。
ノートに何か書いていた。
悠真はその横顔を見た。
昼休み、紗奈が「ちょっといい?」と言った。
二人で、空いている教室に移った。
窓から校庭が見える、いつもと違う場所。
「進路のこと、決まってきた」
紗奈が言った。
「もう?」
「ずっと考えてたから」
悠真は紗奈を見た。
「どこ?」
「T大の文学部」
悠真は少し間を置いた。
T大。
この街から、電車で二時間以上かかる。
一人暮らしが前提になる距離。
「……すごいな」
「まだ受かってない」
「受かるだろ、紗奈なら」
「分からない」
紗奈は窓の外を見た。
「悠真は?」
「俺は……まだ、はっきりしてない」
「写真、続けたいんでしょ」
「うん」
「なら、芸術系?」
「考えてる。でも、親がどう思うか」
紗奈は少し頷いた。
しばらく、二人とも黙った。
校庭で、体育の授業をしている生徒たちの声が聞こえた。
「離れるね」
紗奈が言った。
声のトーンは、平坦だった。
でも、その平坦さの中に何かが混じっていることを、悠真は感じた。
「離れても、連絡する。言っただろ」
「うん」
「信じてないの?」
「信じてる」
「じゃあ」
「でも」
紗奈は窓の外を見たまま、続けた。
「信じてても、怖いことってあるじゃん」
悠真は何も言えなかった。
「悠真がいなくなったとき、私がどうなるか。自分でも分からなくて」
「いなくなるわけじゃない」
「毎日いないのは、いないのと似てる」
その言葉が、静かに刺さった。
放課後、悠真は一人で写真部に行った。
玲奈がいた。
窓際でフィルムの整理をしていた。
「顔色、悪いですよ」
「そう?」
「何かあった?」
悠真はカメラバッグを置いて、椅子に座った。
「紗奈が、T大志望だって」
玲奈は手を止めた。
「遠い?」
「二時間以上」
「そっか」
玲奈はフィルムの整理を再開した。
「悠真はどうしたい?」
「どうって」
「紗奈さんと、同じ方向を向きたい?」
悠真は少し考えた。
「紗奈の邪魔はしたくない」
「それは答えじゃない」
玲奈は静かに言った。
「紗奈さんの邪魔をしない、は紗奈さんのこと。悠真がどうしたいか、は別の話」
悠真は黙った。
「自分の進路を、紗奈さんに合わせるつもりがあるかどうか。それを聞いてる」
「……合わせたい、とは思う」
「思う、だけ?」
「できるかどうか、分からない」
玲奈はフィルムを箱に収めた。
「正直でいい。でも、紗奈さんにも、そのままを伝えた方がいいと思う」
「怖がらせたくない」
「怖がらせることと、正直でいることは、別のことだと思う」
悠真は玲奈を見た。
玲奈は穏やかな顔で、続けた。
「紗奈さん、最近どう?」
「……少し、疲れてるみたいで」
「勉強?」
「それだけじゃない気がして」
玲奈は少し間を置いた。
「ちゃんと見ててあげて」
「うん」
「見てる、じゃなくて、声をかけてあげて」
「……違う?」
「見てるだけだと、相手には伝わらないから」
夜、悠真は紗奈に電話した。
三コールで出た。
『なに』
「なんとなく、声が聞きたくて」
少しの沈黙。
『……変なの』
「そうかな」
『そうだよ』
でも、電話を切らなかった。
しばらく、お互いに特別なことを話さなかった。
今日の授業のこと。
夕飯のこと。
明日の天気のこと。
他愛ない話が続いた。
悠真はその声を聞きながら、今日の紗奈の言葉を思い返していた。
悠真がいなくなったとき、私がどうなるか。
その言葉の重さを、悠真はまだうまく受け止められていなかった。
でも、今夜は声が聞けた。
それだけで、少し安心した。
「紗奈」
『うん』
「無理してたら、言えよ」
少しの間があった。
『……言えたら言う』
「言えなくても、顔見れば分かるから」
『過信しすぎ』
「十年以上の付き合いだから」
紗奈は小さく笑った。
その笑い声が、今夜は少し疲れているように聞こえた。
悠真はそれに気づいて、でも指摘しなかった。
指摘することが、正しいのかどうか、分からなかったから。
──冬が来る前から、何かが少しずつ重くなっていた。
悠真はそれに気づいていた。
でも、どう支えればいいのか、まだ分からなかった。



