土曜日の午後、悠真は初めて紗奈の部屋に上がった。
正確には、初めてではない。
小学生の頃は何度もあった。
でも、いつからか、玄関や居間で済ませるようになっていた。
「散らかってるから」と紗奈がずっと言っていたから。
今日は紗奈の方から「参考書、貸してあげる」と言い出した。
悠真が探していた数学の問題集を、紗奈が持っていた。
紗奈の部屋は、思ったより静かな場所だった。
本棚に参考書と文庫本が並んでいて、机の上は整理されている。
窓際に小さな観葉植物があって、カーテンが風に揺れていた。
「散らかってないじゃん」
悠真が言うと、紗奈は「片付けたから」と素っ気なく答えた。
「俺が来るから?」
「……問題集を出しやすくするため」
「同じことじゃん」
「違う」
紗奈は本棚から問題集を抜き出して、悠真に渡した。
悠真はそれを受け取りながら、部屋を見渡した。
机の横に、一枚の写真が貼ってあった。
川沿いの、二人の影。
「……飾ってくれてる」
紗奈は少し間を置いた。
「言ったじゃん、飾るって」
「本当にやるとは思わなかった」
「言ったことはやる」
紗奈はそっぽを向いた。
耳が少し赤かった。
せっかくだからと、二人で問題集を開いた。
紗奈の机では狭いから、床に座って向かい合った。
ノートと参考書を広げて、しばらく本当に勉強した。
紗奈の教え方は丁寧で、悠真が詰まるところを先に見越して説明する。
昔からそうだった。
「ここ、式の立て方が違う」
「どう違う」
「条件を整理してから立てないと、後で詰まる」
「紗奈って、教えるの上手いよな」
「お世辞はいらない」
「本当のことだけど」
紗奈は少し黙ってから、「ありがとう」と小さく言った。
褒めると素直に受け取れない紗奈が、今日は受け取った。
それが、何かを表している気がした。
一時間ほど経って、二人は自然に手を止めた。
紗奈が窓の外を見た。
空が夕暮れに変わり始めていた。
「ねえ、悠真」
「うん」
「将来のこと、考えてる?」
悠真は少し驚いた。
「急だな」
「最近、考えるようになって」
「進路のこと?」
「それもあるけど」
紗奈は膝を抱えた。
「卒業したら、変わるじゃん。色々」
「変わるな」
「大学、別々になるかもしれないし」
「なるかもな」
「毎日会えなくなる」
悠真は紗奈を見た。
紗奈は窓の外を見たまま、続けた。
「それが、少し怖い」
「怖い?」
「今は学校があるから、自然に会える。でも、それがなくなったら」
紗奈は少し間を置いた。
「私、自分から連絡するの、得意じゃないから」
悠真は知っていた。
紗奈はいつも、連絡を待つ方だった。
自分から送ってくることは、あまりない。
「俺が連絡する」
「悠真だって、新しい環境で忙しくなる」
「それでも連絡する」
「……約束できる?」
「できる」
紗奈は悠真を見た。
「嘘だったら怒るよ」
「怒っていい」
紗奈はそれを聞いて、少しだけ表情が緩んだ。
でも、完全には晴れなかった。
「紗奈、他にも何かある?」
「……ない」
「本当に?」
紗奈は少しの間、黙った。
窓の外で、鳥が一羽飛んでいった。
「なんか最近、ちょっと疲れてる」
「勉強?」
「それもあるけど、なんか……全部」
悠真はその「全部」という言葉を、軽く流せなかった。
「全部って、どういう意味?」
紗奈は視線を落とした。
「うまく言えない。なんか、頑張り続けるのが、たまに、しんどい」
「しんどいなら、休めばいい」
「休み方が分からない」
その言葉が、静かに落ちた。
悠真は何と返せばいいか分からなかった。
でも、何か言わなければと思った。
「紗奈って、いつも誰かのために動いてるよな」
「そんなことない」
「クラスの取りまとめも、勉強の計画も、友達の相談も。全部ちゃんとやってる」
「当たり前のことだから」
「当たり前じゃない」
悠真は真剣な声で言った。
「それ、しんどいよ。ずっとやり続けたら」
紗奈は何も言わなかった。
「俺には、しんどいって言っていい」
「……うん」
「言えそう?」
紗奈は少し考えてから、小さく頷いた。
「言えるかどうか分からないけど、言ってもいいって分かっておくのは、楽かも」
「それで十分だよ」
夕方になって、悠真は帰ることにした。
玄関で靴を履きながら、悠真は振り返った。
「また来ていい?」
紗奈は少し驚いた顔をして、それから言った。
「……次は、もう少し早く片付けとく」
「それ、また来ていいってこと?」
「そういう意味で言った」
悠真は笑った。
紗奈も、少しだけ笑った。
家に帰る道、悠真は紗奈の言葉を反芻していた。
休み方が分からない。
頑張り続けるのが、たまに、しんどい。
紗奈はいつも、しっかりしている。
誰より先に動いて、誰より丁寧にこなして、弱いところを見せない。
だから気づきにくい。
でも、そのしっかりした外側の中で、何かが少しずつ重くなっているのかもしれない。
悠真はそれを、ただの疲れだと思いたかった。
でも、心のどこかに、小さな引っかかりが残った。
ちゃんと見ていよう。
気づける人間でいよう。
夕暮れの道を歩きながら、悠真は静かにそう決めた。
──紗奈の部屋に、あの写真が飾ってあった。
それだけで、今日は十分だと思った。
でも、「休み方が分からない」という言葉が、悠真の胸の中で静かに残り続けた。
正確には、初めてではない。
小学生の頃は何度もあった。
でも、いつからか、玄関や居間で済ませるようになっていた。
「散らかってるから」と紗奈がずっと言っていたから。
今日は紗奈の方から「参考書、貸してあげる」と言い出した。
悠真が探していた数学の問題集を、紗奈が持っていた。
紗奈の部屋は、思ったより静かな場所だった。
本棚に参考書と文庫本が並んでいて、机の上は整理されている。
窓際に小さな観葉植物があって、カーテンが風に揺れていた。
「散らかってないじゃん」
悠真が言うと、紗奈は「片付けたから」と素っ気なく答えた。
「俺が来るから?」
「……問題集を出しやすくするため」
「同じことじゃん」
「違う」
紗奈は本棚から問題集を抜き出して、悠真に渡した。
悠真はそれを受け取りながら、部屋を見渡した。
机の横に、一枚の写真が貼ってあった。
川沿いの、二人の影。
「……飾ってくれてる」
紗奈は少し間を置いた。
「言ったじゃん、飾るって」
「本当にやるとは思わなかった」
「言ったことはやる」
紗奈はそっぽを向いた。
耳が少し赤かった。
せっかくだからと、二人で問題集を開いた。
紗奈の机では狭いから、床に座って向かい合った。
ノートと参考書を広げて、しばらく本当に勉強した。
紗奈の教え方は丁寧で、悠真が詰まるところを先に見越して説明する。
昔からそうだった。
「ここ、式の立て方が違う」
「どう違う」
「条件を整理してから立てないと、後で詰まる」
「紗奈って、教えるの上手いよな」
「お世辞はいらない」
「本当のことだけど」
紗奈は少し黙ってから、「ありがとう」と小さく言った。
褒めると素直に受け取れない紗奈が、今日は受け取った。
それが、何かを表している気がした。
一時間ほど経って、二人は自然に手を止めた。
紗奈が窓の外を見た。
空が夕暮れに変わり始めていた。
「ねえ、悠真」
「うん」
「将来のこと、考えてる?」
悠真は少し驚いた。
「急だな」
「最近、考えるようになって」
「進路のこと?」
「それもあるけど」
紗奈は膝を抱えた。
「卒業したら、変わるじゃん。色々」
「変わるな」
「大学、別々になるかもしれないし」
「なるかもな」
「毎日会えなくなる」
悠真は紗奈を見た。
紗奈は窓の外を見たまま、続けた。
「それが、少し怖い」
「怖い?」
「今は学校があるから、自然に会える。でも、それがなくなったら」
紗奈は少し間を置いた。
「私、自分から連絡するの、得意じゃないから」
悠真は知っていた。
紗奈はいつも、連絡を待つ方だった。
自分から送ってくることは、あまりない。
「俺が連絡する」
「悠真だって、新しい環境で忙しくなる」
「それでも連絡する」
「……約束できる?」
「できる」
紗奈は悠真を見た。
「嘘だったら怒るよ」
「怒っていい」
紗奈はそれを聞いて、少しだけ表情が緩んだ。
でも、完全には晴れなかった。
「紗奈、他にも何かある?」
「……ない」
「本当に?」
紗奈は少しの間、黙った。
窓の外で、鳥が一羽飛んでいった。
「なんか最近、ちょっと疲れてる」
「勉強?」
「それもあるけど、なんか……全部」
悠真はその「全部」という言葉を、軽く流せなかった。
「全部って、どういう意味?」
紗奈は視線を落とした。
「うまく言えない。なんか、頑張り続けるのが、たまに、しんどい」
「しんどいなら、休めばいい」
「休み方が分からない」
その言葉が、静かに落ちた。
悠真は何と返せばいいか分からなかった。
でも、何か言わなければと思った。
「紗奈って、いつも誰かのために動いてるよな」
「そんなことない」
「クラスの取りまとめも、勉強の計画も、友達の相談も。全部ちゃんとやってる」
「当たり前のことだから」
「当たり前じゃない」
悠真は真剣な声で言った。
「それ、しんどいよ。ずっとやり続けたら」
紗奈は何も言わなかった。
「俺には、しんどいって言っていい」
「……うん」
「言えそう?」
紗奈は少し考えてから、小さく頷いた。
「言えるかどうか分からないけど、言ってもいいって分かっておくのは、楽かも」
「それで十分だよ」
夕方になって、悠真は帰ることにした。
玄関で靴を履きながら、悠真は振り返った。
「また来ていい?」
紗奈は少し驚いた顔をして、それから言った。
「……次は、もう少し早く片付けとく」
「それ、また来ていいってこと?」
「そういう意味で言った」
悠真は笑った。
紗奈も、少しだけ笑った。
家に帰る道、悠真は紗奈の言葉を反芻していた。
休み方が分からない。
頑張り続けるのが、たまに、しんどい。
紗奈はいつも、しっかりしている。
誰より先に動いて、誰より丁寧にこなして、弱いところを見せない。
だから気づきにくい。
でも、そのしっかりした外側の中で、何かが少しずつ重くなっているのかもしれない。
悠真はそれを、ただの疲れだと思いたかった。
でも、心のどこかに、小さな引っかかりが残った。
ちゃんと見ていよう。
気づける人間でいよう。
夕暮れの道を歩きながら、悠真は静かにそう決めた。
──紗奈の部屋に、あの写真が飾ってあった。
それだけで、今日は十分だと思った。
でも、「休み方が分からない」という言葉が、悠真の胸の中で静かに残り続けた。



