文化祭が終わってから、一週間が経った。
二人の間に、名前はまだない。
でも、何かが変わったことは、二人とも分かっていた。
朝の登校。
昼食。
放課後の帰り道。
表面上は、以前と変わらない。
ただ、以前より少しだけ、お互いを意識していた。
月曜日の朝。
悠真が昇降口に着くと、紗奈がすでにいた。
靴を履き替えながら、スマートフォンを見ている。
「おはよう」
紗奈が顔を上げた。
「おはよう」
それだけだった。
でも、紗奈の口元が少しだけ緩んだのを、悠真は見た。
並んで廊下を歩きながら、悠真は何か話そうとして、やめた。
話さなくても、苦じゃない。
でも、何か話したい気持ちもある。
これが、変わったことのひとつか。
以前は、黙っていても何も感じなかった。
今は、沈黙の中に何かが混じっている。
昼休み、いつもの場所で四人が集まった。
悠真、紗奈、恒一、そして玲奈。
文化祭が終わってから、玲奈はこの輪に自然に加わっていた。
気まずさがないわけじゃない。
でも、玲奈がそれを表に出さないから、全体として普通でいられた。
「文化祭の打ち上げ、来週だっけ」と恒一が言った。
「木曜日」と紗奈が答えた。
「お前ら全員来いよ、去年少なすぎて寂しかった」
「恒一が誘い方を間違えるから」
「そうそう」と玲奈が静かに言った。
恒一が「玲奈まで」と情けない声を出した。
悠真はその様子を見ながら、弁当を食べた。
普通の昼休み。
でも、全部が少しずつ新しかった。
水曜日の放課後。
写真部の活動で、悠真と玲奈は部室にいた。
文化祭の展示を片付けながら、二人で作業した。
「橘さん」
悠真が呼ぶと、玲奈は「玲奈でいい」と言った。
「前もそう言ったじゃないですか」
「……そうだっけ」
「文化祭の前に」
悠真は少し考えてから、「玲奈」と言い直した。
玲奈は小さく頷いた。
「最近、どう?」
「何がですか」
「色々」
玲奈は写真を丁寧に箱にしまいながら、少し考えた。
「普通です。思ったより」
「そっか」
「悠真が心配してるのは分かるけど、大丈夫」
玲奈は悠真を見た。
「私、自分の感情には正直でいたいから。告白したのも、返事をもらったのも、どっちも自分で選んだことだから」
悠真は何も言えなかった。
「ただ」
玲奈は少し間を置いた。
「紗奈さんとのこと、ちゃんと向き合ってる?」
「……向き合おうとしてる」
「向き合おうとしてる、と、向き合ってる、は違う」
悠真は苦笑した。
「分かってる」
「名前、まだないの?」
「ない」
「なんで」
「怖いから」
玲奈は少し笑った。
「正直になったじゃないですか」
「玲奈に言われたから」
「そう」
玲奈は箱の蓋を閉めた。
「名前がなくても、気持ちはある。でも、名前がないと、相手には伝わりにくいこともある」
悠真はその言葉を、黙って受け取った。
木曜日の打ち上げ。
ファミレスに十数人が集まった。
賑やかで、くだらない話が続いた。
悠真は紗奈の隣に座った。
自然に、気づいたらそうなっていた。
「席、決めた?」と恒一が意地悪そうに聞いた。
「たまたま」と悠真は答えた。
「たまたまねえ」
紗奈が恒一を無視した。
悠真もそれに倣った。
食事の途中、紗奈がドリンクバーに立った。
悠真も立って、「一緒に行く」と言った。
ドリンクバーのコーナーで、二人きりになった。
紗奈はオレンジジュースを選んだ。
悠真はコーラを選んだ。
「楽しい?」と悠真が聞いた。
「まあ」と紗奈が答えた。
「それだけ?」
「うるさい、楽しいよ」
紗奈は少し笑った。
悠真はそれを見て、胸の中で何かが落ち着いた。
この顔が見たかった。
名前のない感情が、また少しだけ、輪郭を持った気がした。
帰り道、二人で歩いた。
夜の住宅街は静かで、遠くで虫の声がした。
「なあ、紗奈」
「うん」
「俺たち、今どういう関係?」
紗奈が歩みを緩めた。
「……急に何」
「気になって」
「親友でしょ」
「それだけ?」
紗奈は少しの間、黙った。
街灯の下で、影が伸びた。
「……分からない」
「俺も分からない」
「じゃあ、分からないまま」
「それで、いいの?」
紗奈は悠真を見た。
少し困ったような、でも嫌じゃなさそうな顔だった。
「よくはないけど」
「うん」
「でも、今すぐ決めなくても、いい気がしてる」
悠真は頷いた。
「俺も」
二人はまた歩き始めた。
さっきより少しだけ、距離が近かった。
紗奈は気づいていないふりをしていた。
悠真も、指摘しなかった。
家に帰って、悠真はベッドに寝転んだ。
天井を見ながら、今日一日を巻き戻した。
玲奈の言葉。
名前がないと、相手には伝わりにくいこともある。
紗奈の顔。
よくはないけど。
その「よくはないけど」の中に、何が入っているか。
悠真にはなんとなく、分かる気がした。
だからこそ、怖かった。
名前をつけることで、初めて、本当の意味で失うかもしれない。
──距離は、近くなっている。
でも、近くなるほど、踏み込む怖さも大きくなっていく。
それが、この関係の、一番難しいところだった。
二人の間に、名前はまだない。
でも、何かが変わったことは、二人とも分かっていた。
朝の登校。
昼食。
放課後の帰り道。
表面上は、以前と変わらない。
ただ、以前より少しだけ、お互いを意識していた。
月曜日の朝。
悠真が昇降口に着くと、紗奈がすでにいた。
靴を履き替えながら、スマートフォンを見ている。
「おはよう」
紗奈が顔を上げた。
「おはよう」
それだけだった。
でも、紗奈の口元が少しだけ緩んだのを、悠真は見た。
並んで廊下を歩きながら、悠真は何か話そうとして、やめた。
話さなくても、苦じゃない。
でも、何か話したい気持ちもある。
これが、変わったことのひとつか。
以前は、黙っていても何も感じなかった。
今は、沈黙の中に何かが混じっている。
昼休み、いつもの場所で四人が集まった。
悠真、紗奈、恒一、そして玲奈。
文化祭が終わってから、玲奈はこの輪に自然に加わっていた。
気まずさがないわけじゃない。
でも、玲奈がそれを表に出さないから、全体として普通でいられた。
「文化祭の打ち上げ、来週だっけ」と恒一が言った。
「木曜日」と紗奈が答えた。
「お前ら全員来いよ、去年少なすぎて寂しかった」
「恒一が誘い方を間違えるから」
「そうそう」と玲奈が静かに言った。
恒一が「玲奈まで」と情けない声を出した。
悠真はその様子を見ながら、弁当を食べた。
普通の昼休み。
でも、全部が少しずつ新しかった。
水曜日の放課後。
写真部の活動で、悠真と玲奈は部室にいた。
文化祭の展示を片付けながら、二人で作業した。
「橘さん」
悠真が呼ぶと、玲奈は「玲奈でいい」と言った。
「前もそう言ったじゃないですか」
「……そうだっけ」
「文化祭の前に」
悠真は少し考えてから、「玲奈」と言い直した。
玲奈は小さく頷いた。
「最近、どう?」
「何がですか」
「色々」
玲奈は写真を丁寧に箱にしまいながら、少し考えた。
「普通です。思ったより」
「そっか」
「悠真が心配してるのは分かるけど、大丈夫」
玲奈は悠真を見た。
「私、自分の感情には正直でいたいから。告白したのも、返事をもらったのも、どっちも自分で選んだことだから」
悠真は何も言えなかった。
「ただ」
玲奈は少し間を置いた。
「紗奈さんとのこと、ちゃんと向き合ってる?」
「……向き合おうとしてる」
「向き合おうとしてる、と、向き合ってる、は違う」
悠真は苦笑した。
「分かってる」
「名前、まだないの?」
「ない」
「なんで」
「怖いから」
玲奈は少し笑った。
「正直になったじゃないですか」
「玲奈に言われたから」
「そう」
玲奈は箱の蓋を閉めた。
「名前がなくても、気持ちはある。でも、名前がないと、相手には伝わりにくいこともある」
悠真はその言葉を、黙って受け取った。
木曜日の打ち上げ。
ファミレスに十数人が集まった。
賑やかで、くだらない話が続いた。
悠真は紗奈の隣に座った。
自然に、気づいたらそうなっていた。
「席、決めた?」と恒一が意地悪そうに聞いた。
「たまたま」と悠真は答えた。
「たまたまねえ」
紗奈が恒一を無視した。
悠真もそれに倣った。
食事の途中、紗奈がドリンクバーに立った。
悠真も立って、「一緒に行く」と言った。
ドリンクバーのコーナーで、二人きりになった。
紗奈はオレンジジュースを選んだ。
悠真はコーラを選んだ。
「楽しい?」と悠真が聞いた。
「まあ」と紗奈が答えた。
「それだけ?」
「うるさい、楽しいよ」
紗奈は少し笑った。
悠真はそれを見て、胸の中で何かが落ち着いた。
この顔が見たかった。
名前のない感情が、また少しだけ、輪郭を持った気がした。
帰り道、二人で歩いた。
夜の住宅街は静かで、遠くで虫の声がした。
「なあ、紗奈」
「うん」
「俺たち、今どういう関係?」
紗奈が歩みを緩めた。
「……急に何」
「気になって」
「親友でしょ」
「それだけ?」
紗奈は少しの間、黙った。
街灯の下で、影が伸びた。
「……分からない」
「俺も分からない」
「じゃあ、分からないまま」
「それで、いいの?」
紗奈は悠真を見た。
少し困ったような、でも嫌じゃなさそうな顔だった。
「よくはないけど」
「うん」
「でも、今すぐ決めなくても、いい気がしてる」
悠真は頷いた。
「俺も」
二人はまた歩き始めた。
さっきより少しだけ、距離が近かった。
紗奈は気づいていないふりをしていた。
悠真も、指摘しなかった。
家に帰って、悠真はベッドに寝転んだ。
天井を見ながら、今日一日を巻き戻した。
玲奈の言葉。
名前がないと、相手には伝わりにくいこともある。
紗奈の顔。
よくはないけど。
その「よくはないけど」の中に、何が入っているか。
悠真にはなんとなく、分かる気がした。
だからこそ、怖かった。
名前をつけることで、初めて、本当の意味で失うかもしれない。
──距離は、近くなっている。
でも、近くなるほど、踏み込む怖さも大きくなっていく。
それが、この関係の、一番難しいところだった。



