ベストフレンズ

 文化祭の翌日は、普通の授業だった。

 それがなんとなく、不思議な感じがした。
昨日あれだけ賑やかだった校舎が、今日はいつも通りの静けさに戻っている。

 悠真は一時間目の授業中、ずっと同じことを考えていた。

 玲奈への返事。

 答えは、もう出ていた。
昨日、紗奈と話した後に、静かに決まっていた。

 問題は、どう伝えるかだった。



 昼休み、悠真は玲奈に声をかけた。

「少し、いい?」

 玲奈は悠真の顔を見て、すぐに分かったようだった。
「うん」とだけ言って、立ち上がった。

 二人は屋上への階段の踊り場に行った。
人が来ない、でも閉じてもいない場所。

 玲奈は手すりに軽く手を置いて、悠真を見た。
急かさない目だった。

 悠真は息を一つ吸った。

「ごめん」

「……うん」

「玲奈のこと、好きか嫌いかで言ったら、好きだと思う。一緒にいると話しやすいし、考え方が面白いと思うし、写真の話ができるのも嬉しかった」

 玲奈は何も言わなかった。

「でも、それと、付き合いたいかどうかは、違った」

 静かな踊り場に、悠真の声だけがあった。

「紗奈のことが、頭から離れない。取られたくないとか、隣にいてほしいとか、そういう気持ちが、ずっとある。それが何なのか、まだはっきり分からないけど」

 悠真は玲奈を見た。

「そっちの方が先にある。それは、玲奈に対して誠実じゃないと思った」

 玲奈はしばらく、悠真の顔を見ていた。

 それから、小さく息をついた。

「正直に言ってくれてありがとう」

「……こちらこそ、ごめん」

「謝らなくていい」

 玲奈は手すりから手を離して、少し笑った。

 泣いてはいなかった。
でも、笑顔の奥に何かがあることは、悠真にも分かった。

「告白したのは私だから。返事をもらう権利はあっても、内容を選ぶ権利はない」

「玲奈」

「ただ」

 玲奈は窓の外を見た。

 曇り空だった。

「一つだけ聞いていい?」

「うん」

「紗奈さんに、ちゃんと向き合う?」

 悠真は少し間を置いてから、答えた。

「向き合う」

 玲奈は頷いた。

「なら、いい」


 踊り場を出るとき、玲奈が振り返らずに言った。

「写真部、続けていい?」

 悠真は少し驚いた。

「当たり前だろ」

「気まずいかと思って」

「俺は気まずくない」

「……私も、そんなに気まずくないかな」

 玲奈は少しだけ笑った声で言った。

 悠真はその背中を見ながら、玲奈という人間の強さを、また感じた。



 放課後。

 悠真は一人で川沿いを歩いた。

 紗奈に連絡しようとして、何度もスマートフォンを開いて、閉じた。

 何を言えばいい。

 玲奈に返事をした、とだけ伝えればいいのか。
それとも、昨日言いかけたことの続きを話すべきか。

 分からないまま、黙ってるのは違う。

 自分でそう言ったのに、また迷っていた。

 川の水が、ゆっくり流れていた。
夏の終わりの空が、水面に映っている。

 悠真はベンチに座って、空を見た。

 紗奈と並んで歩いたこの道。
 影が重なった、あの夕方。

 あの写真を、紗奈は「飾っておきたい」と言った。

 その言葉の重さを、悠真はまだ両手で持て余していた。



 スマートフォンが鳴った。

 紗奈からだった。

 メッセージではなく、電話だった。

 悠真は少し驚きながら、出た。

「もしもし」

『……今、どこ?』

「川沿い」

少しの沈黙。

『奇遇。私も』

悠真は立ち上がった。

「どのへん」

『橋の手前のベンチ』

「分かった。行く」

電話を切って、悠真は歩き始めた。

足が自然と速くなった。



 橋の手前のベンチに、紗奈がいた。

 膝の上に鞄を置いて、川を見ていた。
 悠真の足音に気づいて、振り返った。

「来た」

「来た」

 悠真は隣に座った。

 二人でしばらく、川を見た。

「玲奈に返事した」

 悠真が言った。

 紗奈は川を見たまま、「うん」と言った。

「断った」

 今度は、紗奈は何も言わなかった。

 川の音だけがあった。

「紗奈」

「……うん」

「昨日言ったこと、もう少しちゃんと言う」

 紗奈が悠真を見た。

 悠真は川を見たまま、続けた。

「俺は、紗奈のことが怖い」

「怖い?」

「大事すぎて、怖い。失ったらどうなるか想像できないくらい、大事で」

 風が吹いた。

「だから名前をつけるのが怖かった。名前をつけて、もし壊れたら、取り返しがつかないと思って」

 悠真はそこで、紗奈を見た。

「でも、黙ってることで紗奈を泣かせるのは、もっと違うと思った」

 紗奈は悠真の顔を見ていた。

 目が、揺れていた。

「……泣いてないよ、昨日」

「泣きそうだった」

「……うるさい」

 声が、少し震えていた。

 悠真は前を向いた。

「まだ、はっきりとは分からない。でも、紗奈の隣にいたい。それだけは分かる」

 川が、静かに流れていた。

 しばらくして、紗奈が言った。

「……私も、分からないままでいい?」

「いい」

「焦らなくていい?」

「焦らなくていい」

 紗奈は小さく息をついた。

 それから、ぽつりと言った。

「隣にいてよ」

「いる」

「約束して」

「約束する」

 紗奈はそれを聞いて、川の方を向いた。

 横顔が、少しだけ柔らかくなった。


 二人はそのまま、暗くなるまで川沿いにいた。

 特別なことは、何も起きなかった。

 ただ並んで座って、時々話して、時々黙って。

 いつもと同じような時間。
 
 でも、何かが少しだけ変わった夜だった。



 ──名前は、まだない。
でも、隣にいると決めた。
それは、言葉より先に、確かなものだった。