文化祭の朝は、晴れだった。
校舎に入ると、すでに空気が違った。
笑い声、足音、準備の物音。
廊下を歩くだけで、何かが始まる予感がした。
悠真はホームルームの前に、一人で展示スペースを確認しに行った。
昨日のまま、写真は並んでいた。
「二人の影」も、そこにあった。
今日、紗奈がこれを見る。
今日、玲奈への返事を出さなければならない。
悠真はそれだけを考えながら、教室に戻った。
午前中は、クラスの出し物で動いた。
縁日風喫茶店の呼び込みを担当した悠真は、廊下に立って声を出し続けた。
恒一が隣で「お前、全然声に覇気がない」と言った。
「うるさい」
「昨日何かあった?」
「ない」
「嘘くさ」
恒一は悠真の顔をじろじろ見てから、「まあいいけど」と言って客引きに戻った。
紗奈は調理班として厨房にいて、午前中は顔を合わせなかった。
それがなんとなく、ありがたかった。
昼過ぎ、交代で休憩になった。
悠真は展示スペースへ向かった。
昼の時間帯で、渡り廊下には人が流れていた。
写真部の展示を見ている人たちの中に、玲奈がいた。
悠真の写真の前に、静かに立っていた。
「玲奈」
振り返った玲奈は、驚いた様子もなく「来たんですね」と言った。
「休憩で」
「そっか」
玲奈はまた写真を見た。
「やっぱり好きだな、この写真」
悠真は隣に並んだ。
「ありがとう」
「展示してよかったと思う」
しばらく、二人で並んで写真を見た。
人が流れる中で、二人の周りだけ少し静かな気がした。
「悠真」
「うん」
「返事、今日じゃなくていい」
悠真は玲奈を見た。
玲奈は写真を見たまま、続けた。
「急かすつもりはなかったけど、プレッシャーになってたなら、ごめんなさい」
「……そんなことない」
「でも、顔に出てる」
悠真は何も言えなかった。
玲奈は小さく息をついた。
「私ね、悠真のことが好きになったのは本当だよ。でも、それと同じくらい」
少し間があった。
「悠真と紗奈さんの間にあるものを、壊したくないとも思ってる」
「玲奈……」
「おかしいよね、告白しておいて」
玲奈は少しだけ笑った。
「でも、そう思ってる。だから、ちゃんと考えて」
玲奈が人の流れに戻っていくのを、悠真は見送った。
一人になって、また写真を見た。
影が重なってるのに、見てる方向が違う。
紗奈の言葉が戻ってくる。
選ばれないことが怖い。
悠真は目を閉じた。
自分はずっと、何かを避けてきた。
名前をつけることを。
踏み込むことを。
失うことを。
でも、避け続けた結果、紗奈を昨日泣かせた。
泣かせた、わけじゃない。
でも、泣きそうにさせた。
それは、同じことだと悠真は思った。
夕方近く、展示スペースに紗奈が来た。
一人だった。
悠真を探して来たのか、それとも偶然なのか、分からなかった。
でも、悠真の顔を見た瞬間、紗奈は少しだけ足を止めた。
「……いたんだ」
「いた」
「奇遇」
「そうでもない気がする」
紗奈は小さく笑って、展示を見始めた。
他の部員の写真を、一枚ずつ丁寧に見ていく。
悠真はその隣で、黙って立っていた。
そして紗奈が「二人の影」の前に来たとき、悠真は口を開いた。
「紗奈」
「うん」
「昨日のこと」
「……いい、昨日のことは」
「よくない」
紗奈が悠真を見た。
悠真は写真を見たまま、言った。
「俺も、怖かった。名前をつけることが。でもそれ以上に」
少し、間があった。
「紗奈が誰かに取られる想像が、耐えられなかった」
渡り廊下を、風が通った。
紗奈は何も言わなかった。
「それが友情なのか恋なのか、まだ分からない。でも」
悠真はようやく紗奈を見た。
「分からないまま、黙ってるのは違うと思った」
紗奈は悠真の顔を見ていた。
目が、また少し赤くなっていた。
「……最悪なタイミング」
「ごめん」
「文化祭の途中だよ」
「分かってる」
「顔、見られたくない」
「見ない」
悠真は前を向いた。
紗奈も前を向いた。
二人で、写真を見た。
影が重なって、視線が違う、あの写真を。
しばらくして、紗奈が小さく言った。
「……私も、分からない。まだ」
「うん」
「でも」
一呼吸。
「分からないって、言えてよかった」
夕暮れが、渡り廊下を橙色に染めた。
人の流れが少なくなって、展示スペースに二人だけになった。
悠真は紗奈の横顔を見た。
泣いてはいなかった。
でも、いつもより柔らかい顔をしていた。
「帰りは一緒に帰る?」
悠真が聞くと、紗奈は少し考えてから言った。
「……今日は、一人で帰る」
「そっか」
「ごめん」
「謝らなくていい」
紗奈はまた写真を見た。
「この写真、文化祭が終わったらどうするの」
「部室に戻す」
「……一枚、くれない?」
悠真は少し驚いた。
「いいけど、なんで」
紗奈は少しだけ笑った。
「飾っておきたいから」
──文化祭が終わった。
二人はまだ、何者でもなかった。
でも、黙っていることをやめた夜が、確かにそこにあった。
校舎に入ると、すでに空気が違った。
笑い声、足音、準備の物音。
廊下を歩くだけで、何かが始まる予感がした。
悠真はホームルームの前に、一人で展示スペースを確認しに行った。
昨日のまま、写真は並んでいた。
「二人の影」も、そこにあった。
今日、紗奈がこれを見る。
今日、玲奈への返事を出さなければならない。
悠真はそれだけを考えながら、教室に戻った。
午前中は、クラスの出し物で動いた。
縁日風喫茶店の呼び込みを担当した悠真は、廊下に立って声を出し続けた。
恒一が隣で「お前、全然声に覇気がない」と言った。
「うるさい」
「昨日何かあった?」
「ない」
「嘘くさ」
恒一は悠真の顔をじろじろ見てから、「まあいいけど」と言って客引きに戻った。
紗奈は調理班として厨房にいて、午前中は顔を合わせなかった。
それがなんとなく、ありがたかった。
昼過ぎ、交代で休憩になった。
悠真は展示スペースへ向かった。
昼の時間帯で、渡り廊下には人が流れていた。
写真部の展示を見ている人たちの中に、玲奈がいた。
悠真の写真の前に、静かに立っていた。
「玲奈」
振り返った玲奈は、驚いた様子もなく「来たんですね」と言った。
「休憩で」
「そっか」
玲奈はまた写真を見た。
「やっぱり好きだな、この写真」
悠真は隣に並んだ。
「ありがとう」
「展示してよかったと思う」
しばらく、二人で並んで写真を見た。
人が流れる中で、二人の周りだけ少し静かな気がした。
「悠真」
「うん」
「返事、今日じゃなくていい」
悠真は玲奈を見た。
玲奈は写真を見たまま、続けた。
「急かすつもりはなかったけど、プレッシャーになってたなら、ごめんなさい」
「……そんなことない」
「でも、顔に出てる」
悠真は何も言えなかった。
玲奈は小さく息をついた。
「私ね、悠真のことが好きになったのは本当だよ。でも、それと同じくらい」
少し間があった。
「悠真と紗奈さんの間にあるものを、壊したくないとも思ってる」
「玲奈……」
「おかしいよね、告白しておいて」
玲奈は少しだけ笑った。
「でも、そう思ってる。だから、ちゃんと考えて」
玲奈が人の流れに戻っていくのを、悠真は見送った。
一人になって、また写真を見た。
影が重なってるのに、見てる方向が違う。
紗奈の言葉が戻ってくる。
選ばれないことが怖い。
悠真は目を閉じた。
自分はずっと、何かを避けてきた。
名前をつけることを。
踏み込むことを。
失うことを。
でも、避け続けた結果、紗奈を昨日泣かせた。
泣かせた、わけじゃない。
でも、泣きそうにさせた。
それは、同じことだと悠真は思った。
夕方近く、展示スペースに紗奈が来た。
一人だった。
悠真を探して来たのか、それとも偶然なのか、分からなかった。
でも、悠真の顔を見た瞬間、紗奈は少しだけ足を止めた。
「……いたんだ」
「いた」
「奇遇」
「そうでもない気がする」
紗奈は小さく笑って、展示を見始めた。
他の部員の写真を、一枚ずつ丁寧に見ていく。
悠真はその隣で、黙って立っていた。
そして紗奈が「二人の影」の前に来たとき、悠真は口を開いた。
「紗奈」
「うん」
「昨日のこと」
「……いい、昨日のことは」
「よくない」
紗奈が悠真を見た。
悠真は写真を見たまま、言った。
「俺も、怖かった。名前をつけることが。でもそれ以上に」
少し、間があった。
「紗奈が誰かに取られる想像が、耐えられなかった」
渡り廊下を、風が通った。
紗奈は何も言わなかった。
「それが友情なのか恋なのか、まだ分からない。でも」
悠真はようやく紗奈を見た。
「分からないまま、黙ってるのは違うと思った」
紗奈は悠真の顔を見ていた。
目が、また少し赤くなっていた。
「……最悪なタイミング」
「ごめん」
「文化祭の途中だよ」
「分かってる」
「顔、見られたくない」
「見ない」
悠真は前を向いた。
紗奈も前を向いた。
二人で、写真を見た。
影が重なって、視線が違う、あの写真を。
しばらくして、紗奈が小さく言った。
「……私も、分からない。まだ」
「うん」
「でも」
一呼吸。
「分からないって、言えてよかった」
夕暮れが、渡り廊下を橙色に染めた。
人の流れが少なくなって、展示スペースに二人だけになった。
悠真は紗奈の横顔を見た。
泣いてはいなかった。
でも、いつもより柔らかい顔をしていた。
「帰りは一緒に帰る?」
悠真が聞くと、紗奈は少し考えてから言った。
「……今日は、一人で帰る」
「そっか」
「ごめん」
「謝らなくていい」
紗奈はまた写真を見た。
「この写真、文化祭が終わったらどうするの」
「部室に戻す」
「……一枚、くれない?」
悠真は少し驚いた。
「いいけど、なんで」
紗奈は少しだけ笑った。
「飾っておきたいから」
──文化祭が終わった。
二人はまだ、何者でもなかった。
でも、黙っていることをやめた夜が、確かにそこにあった。



