ベストフレンズ

文化祭の前日になった。

午後から授業が早く終わり、各部活・各クラスが最終準備に入った。
校舎のあちこちから声や物音がして、いつもと違う空気が漂っている。

写真部の展示スペースでは、悠真が一人、最後の調整をしていた。

照明の角度。
写真の高さ。
キャプションの位置。

細かいことを確認するたびに、あの「二人の影」の写真が目に入った。
見るたびに、昨日の紗奈の声が戻ってくる。

それだけ。

震えていた。

「手伝おうか」

振り返ると、紗奈が渡り廊下の入口に立っていた。
クラスの準備が終わったのか、エプロンを手に持っている。

「……いいの? 疲れてるだろ」

「座ってるより動いてた方が楽なタイプだから」

紗奈はそう言って、悠真の隣に来た。
展示を見渡して、「きれい」と小さく言った。


二人で黙々と作業した。

紗奈はキャプションの文字がまっすぐかを確認したり、床に落ちた画鋲を拾ったり、悠真が気づかない細かいところを自然に整えていった。

「紗奈、なんで来たの」

悠真は作業しながら聞いた。

「さっき言ったじゃん、手伝いに」

「それだけ?」

紗奈は少しの間、手を止めた。

「……悠真の写真、ちゃんと見たかった」

「ここで見ればよかっただろ、明日」

「明日は人がいるから」

その言葉の意味を、悠真はすぐには聞き返せなかった。



一通り終わって、二人は並んで展示を眺めた。

他の部員たちの写真。
玲奈のフィルム写真。
そして、悠真の「二人の影」。

紗奈はその写真の前で、しばらく動かなかった。

「これ、夏に撮ったやつだね」

「うん」

「気づいてなかった」

「撮られてる方は気づかないよ、たいてい」

紗奈は写真から目を離さないまま言った。

「影が重なってる」

「うん」

「でも、見てる方向が違う」

「……うん」

紗奈は静かに息を吸った。

「悠真は、この写真を展示しようって思ったとき、何を考えてた?」

悠真は答えを探した。

正直に言えば、深く考えていなかった。
玲奈に「出してみたら」と言われて、気づいたら決めていた。

でも、今この写真を見ると、無意識に何かを撮っていたことが分かる。

「……分からない」

「分からないって言うと思った」

紗奈の声は責めていなかった。

ただ、少しだけ、疲れているみたいだった。



「ねえ、悠真」

「うん」

「私、ずっと怖かった」

悠真は紗奈の方を見た。

紗奈は写真を見たまま、続けた。

「名前をつけたら、壊れると思ってた。だから何も言わなかった。何も感じてないふりをしてた」

「紗奈……」

「でも」

紗奈はそこで初めて、悠真の方を向いた。

目が、少し赤かった。

「橘さんが告白して、悠真が返事を保留して、それを聞いたとき、初めて分かった」

「何が」

「怖いのは、壊れることじゃなくて」

紗奈は小さく笑った。
泣きそうな顔で、笑った。

「選ばれないことだって」



沈黙が落ちた。

渡り廊下の窓から、夕暮れの風が入ってきた。
どこかのクラスから、笑い声が聞こえた。

悠真は紗奈の言葉を、ゆっくり受け取っていた。

選ばれないことが怖い。

それは──

「紗奈」

「言わなくていい」

紗奈は首を振った。

「今は言わなくていい。明日、文化祭があって、悠真には橘さんへの返事もある。私が今こんなこと言うのは、ずるいって分かってる」

「ずるくない」

「ずるいよ」

紗奈の声が、また少し震えた。

「ずるいけど、言わずにいられなかった。それだけ」

それだけ。

昨日と同じ言葉。
でも今日は、震えの意味が分かった。

悠真は何も言えなかった。
言葉を探して、見つからなくて、ただ紗奈の隣に立っていた。

紗奈はもう一度、写真を見た。

「きれいな写真だよ」

静かに言った。

「影が重なってるのに、見てる方向が違うところが」


帰り道、二人はいつもより遠い距離で歩いた。

話さなかった。
でも、離れなかった。

曲がり角で、紗奈が立ち止まった。

「おやすみ」

「おやすみ」

今日は、紗奈が振り返った。

一瞬だけ、悠真の顔を見た。
それから、小さく頷いて、歩いていった。

悠真はその後ろ姿が見えなくなるまで、動けなかった。

夜風が吹いて、街灯が揺れた。

選ばれないことが怖い。

その言葉の重さを、悠真はまだ、両手で持て余していた。



──明日は、文化祭。

言葉にした感情は、もう、なかったことにはできない。