ベストフレンズ

 文化祭まで、あと五日になっていた。

 写真部の展示スペースは、体育館の横にある渡り廊下に割り当てられていた。
細長い空間に、部員たちの作品が並ぶ。
悠真は放課後、一人で展示の配置を確認していた。

「ここ、もう少し右に寄せた方がいいと思う」

玲奈の声がした。

 振り返ると、彼女がボードの端を軽く押さえていた。
 制服の袖がほんの少し折れていて、それがなんとなく、いつもより普通の子みたいに見えた。

「……そうかな」

「光の当たり方が変わるから」

 悠真はボードを少し右に動かした。
 確かに、写真の見え方が変わった。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 玲奈は自分の展示スペースに戻り、フィルム写真を丁寧に並べ始めた。
 悠真はその横顔をちらりと見て、また自分の作業に戻った。

 しばらく、二人とも無言で手を動かしていた。


「昨日、紗奈さんと話してた?」

 玲奈が聞いた。

 作業の手は止めないまま、自然な声のトーンで。

「うん」

「どうだった」

「……どう、って」

「雰囲気」

悠真は手を止めた。

「普通だった」

「普通」

 玲奈は静かに繰り返した。肯定でも否定でもなく、ただ確認するように。

「悠真にとっての"普通"が、紗奈さんにとっての"普通"と同じかどうかは分からない」

「それ、どういう意味」

「そのままの意味」

 玲奈はフィルム写真を一枚、ボードに留めた。

「悠真は相手が何も言わなければ大丈夫だと思う癖がある。でも、言えない人間がいることは知ってるはずでしょう」

 悠真は答えられなかった。

「私が言えるのは、紗奈さんが昨日の帰り道、一人で歩いてたってこと。いつも悠真と一緒に帰るのに」

 知らなかった。

 悠真はそれだけを、胸の中で静かに受け取った。



 放課後、悠真は紗奈に連絡した。

今どこ?

 既読がついたのは、三十分後だった。

 図書室。なんで?

 会いに行く

 別にいいよ、もうすぐ終わるし

 悠真はその「別にいいよ」を二回読んで、鞄を持って立ち上がった。



 図書室に着くと、紗奈は窓際の席に一人でいた。
 参考書が広げられているが、視線はどこか違うところを見ている。

 悠真が隣に座ると、紗奈は少し驚いた顔をした。

「来たの」

「来た」

「なんで」

「会いたかったから」

 紗奈は一瞬だけ、何かに耐えるような顔をした。
 それからすぐに、いつもの表情に戻った。

「変なの」

「そうかな」

 悠真は紗奈の参考書を横目で見た。
 ページが、さっきから変わっていない気がした。

「全然頭に入ってない?」

「……うるさい」

 図書室だから、声は小さい。
 でも、その小さな声に、少しだけ笑いが混じっていた。

 悠真はそれを聞いて、少しだけ息をついた。

 よかった。まだ笑える。



 帰り道、二人は並んで歩いた。

 いつもの道。
 いつもの信号。
 いつもの曲がり角。

 ただ、今日は少しだけ歩くのが遅かった。
二人とも、なんとなく、終わりを遅らせているみたいに。

「悠真」

「うん」

「橘さんのこと、ちゃんと考えてる?」

「……考えてる」

「嘘くさい」

「考えてるよ」

紗奈は少しの間、黙った。

「橘さん、真剣だよ。あの人が適当に人を好きになる人じゃないことくらい、私にも分かる」

悠真は紗奈の横顔を見た。

街灯が点き始めた時間で、紗奈の輪郭がオレンジ色に滲んでいた。

「紗奈は、俺にどうしてほしいの」

「……関係ない」

「関係ある」

「ない」

「紗奈」

「ないって言ってる」

声が、少し強くなった。

悠真は何も言えなかった。

紗奈は前を向いたまま、小さく息を吸った。

「橘さんのこと、ちゃんと考えてあげて。それだけ」

それだけ、と言った声が、わずかに震えていた。

悠真はその震えに気づいた。
気づいて、でも、何も言えなかった。

言えない。

言ったら、何かが変わってしまう。

変わることが怖いのか、それとも──

「おやすみ」

紗奈が先に曲がり角で止まった。

「うん。おやすみ」

悠真は立ち止まって、紗奈の後ろ姿を見た。

紗奈は振り返らなかった。



 家に帰って、悠真はしばらく部屋の電気もつけないでいた。

 暗い部屋の中で、鞄を下ろして、壁にもたれる。

 スマートフォンに、玲奈からメッセージが来ていた。

展示、いい感じになりそうですね。

それだけだった。
告白の返事を急かすでも、紗奈のことを聞くでもない。

ただ、それだけ。

 悠真はその短いメッセージを見て、玲奈という人間の不思議な誠実さを、また感じた。

ありがとう、と返した。

送信してから、悠真はスマートフォンを置いた。

天井を見上げる。

紗奈の「それだけ」という声が、まだ耳に残っていた。

震えていた。

あの声が震えていた理由を、悠真はもう、知らないふりができなくなっていた。



 ──文化祭まで、あと五日。

言えない理由が、少しずつ、言い訳じゃなくなってきていた。