文化祭まで、あと一週間になっていた。
放課後の教室には、まだ誰かが残っている。
折り紙で作った提灯、手書きのメニュー表、ガムテープで補強された看板。
じわじわと、文化祭の匂いがしてくる。
悠真は窓際の席で、展示する写真の最終確認をしていた。
あの「二人の影」の写真。
川沿いで、二人が並んで歩いていた夏の夕方。
互いの影が長く伸びて、途中で重なっている。
紗奈は「楽しみにしてる」と言っていた。
悠真はその言葉を反芻するたびに、胸のどこかがじくじくした。
楽しみ、という言葉の軽さと、あの写真が持っている重さが、うまく噛み合わない気がして。
あれを見た紗奈が、何を思うか。
考えてから、悠真は自分が心配しているのか、期待しているのか、分からなくなった。
「まだいたの」
声に顔を上げると、紗奈が教室の入口に立っていた。
調理班のミーティングが終わったのか、ノートを脇に抱えている。
「紗奈こそ」
「取りまとめ、思ったより長引いた」
そう言いながら、紗奈は悠真の隣の席に自然に座った。
何年も繰り返してきた動作のように、迷いがない。
悠真はその迷いのなさが好きだった。
同時に、その迷いのなさに甘えてきたことも、分かっていた。
「写真、見てた?」
「うん」
「どう?」
紗奈は写真を覗き込んで、少しの間黙っていた。
「……綺麗だね」
「それだけ?」
「それだけ、って言ったら怒る?」
「怒んないけど」
紗奈は写真から目を離して、窓の外を見た。
グラウンドでは野球部がまだ練習している。
ボールが飛ぶ音と、誰かの掛け声が、夕暮れの中に溶けていく。
「影が重なってるのに、二人は別々の方向を向いてるね」
悠真は写真を見た。
言われてみれば、そうだった。
影は確かに重なっているのに、二人の視線は少しずれている。
どこを見ているのか、写真では分からない。
「そういうつもりで撮ったわけじゃ……」
「分かってる」
紗奈は静かに言った。
「でも、そういう写真だと思う。悠真が無意識に撮ったんなら、なおさら」
悠真は何も言えなかった。
沈黙が落ちた。
嫌な沈黙じゃない。
でも、いつもより少し、重い。
「橘さん、告白したって本当?」
紗奈が唐突に言った。
声のトーンは変わらない。
ただ、窓の外を見たまま、聞いていた。
悠真の心拍数が上がった。
「……誰から聞いた」
「恒一」
あいつか。
悠真は内心で舌打ちをしたが、表には出さなかった。
「返事、してないんだって」
「うん」
「なんで」
「……まだ、整理できてないから」
紗奈はそこで初めて、悠真の方を見た。
「整理できてないって、どういう意味?」
その目が、いつもと少し違う。
責めているわけじゃない。
ただ、何かを確かめようとしている。
悠真はその目を正面から受け止められなくて、写真に目を落とした。
「玲奈のことは、嫌いじゃない。でも……」
「でも?」
「上手く言えない」
「悠真、いつもそれ言う」
紗奈の声が、少しだけ揺れた。
「上手く言えないって言って、何も言わないまま終わる。ずっとそう」
悠真はゆっくりと顔を上げた。
紗奈は視線を外さなかった。
「私もそうだけど」
その言葉の後、紗奈は少し笑った。
でも目は笑っていなかった。
「お互い、上手く言えないね」
チャイムが鳴った。
教職員が見回りに来る前に出なければ。
二人はほぼ同時に立ち上がり、荷物をまとめた。
廊下に出ると、夕暮れの光が床に伸びていた。
オレンジ色の光の中で、二人の影がまた、重なった。
悠真は何気なく、それを見た。
写真の中の影と、今目の前にある影。
同じだ。
でも、今の自分たちには、写真の中よりも少しだけ、距離がある気がした。
「帰ろ」
紗奈が言った。
「うん」
悠真は頷いた。
並んで歩き始めながら、悠真はずっと考えていた。
整理できてない、と言った。
でも本当は──
「紗奈」
「何?」
「……なんでもない」
紗奈は一瞬だけ悠真を見て、また前を向いた。
「そっか」
その「そっか」が、今夜はいつもより少し短かった。
悠真はそれに気づいて、また言葉を飲み込んだ。
自分が我慢すれば、丸く収まる。
いつからか身についたその癖が、今は少しだけ、怖かった。
──文化祭まで、あと六日。
悠真の胸の中で、まだ名前のついていない感情が、静かにその輪郭を濃くしていた。
放課後の教室には、まだ誰かが残っている。
折り紙で作った提灯、手書きのメニュー表、ガムテープで補強された看板。
じわじわと、文化祭の匂いがしてくる。
悠真は窓際の席で、展示する写真の最終確認をしていた。
あの「二人の影」の写真。
川沿いで、二人が並んで歩いていた夏の夕方。
互いの影が長く伸びて、途中で重なっている。
紗奈は「楽しみにしてる」と言っていた。
悠真はその言葉を反芻するたびに、胸のどこかがじくじくした。
楽しみ、という言葉の軽さと、あの写真が持っている重さが、うまく噛み合わない気がして。
あれを見た紗奈が、何を思うか。
考えてから、悠真は自分が心配しているのか、期待しているのか、分からなくなった。
「まだいたの」
声に顔を上げると、紗奈が教室の入口に立っていた。
調理班のミーティングが終わったのか、ノートを脇に抱えている。
「紗奈こそ」
「取りまとめ、思ったより長引いた」
そう言いながら、紗奈は悠真の隣の席に自然に座った。
何年も繰り返してきた動作のように、迷いがない。
悠真はその迷いのなさが好きだった。
同時に、その迷いのなさに甘えてきたことも、分かっていた。
「写真、見てた?」
「うん」
「どう?」
紗奈は写真を覗き込んで、少しの間黙っていた。
「……綺麗だね」
「それだけ?」
「それだけ、って言ったら怒る?」
「怒んないけど」
紗奈は写真から目を離して、窓の外を見た。
グラウンドでは野球部がまだ練習している。
ボールが飛ぶ音と、誰かの掛け声が、夕暮れの中に溶けていく。
「影が重なってるのに、二人は別々の方向を向いてるね」
悠真は写真を見た。
言われてみれば、そうだった。
影は確かに重なっているのに、二人の視線は少しずれている。
どこを見ているのか、写真では分からない。
「そういうつもりで撮ったわけじゃ……」
「分かってる」
紗奈は静かに言った。
「でも、そういう写真だと思う。悠真が無意識に撮ったんなら、なおさら」
悠真は何も言えなかった。
沈黙が落ちた。
嫌な沈黙じゃない。
でも、いつもより少し、重い。
「橘さん、告白したって本当?」
紗奈が唐突に言った。
声のトーンは変わらない。
ただ、窓の外を見たまま、聞いていた。
悠真の心拍数が上がった。
「……誰から聞いた」
「恒一」
あいつか。
悠真は内心で舌打ちをしたが、表には出さなかった。
「返事、してないんだって」
「うん」
「なんで」
「……まだ、整理できてないから」
紗奈はそこで初めて、悠真の方を見た。
「整理できてないって、どういう意味?」
その目が、いつもと少し違う。
責めているわけじゃない。
ただ、何かを確かめようとしている。
悠真はその目を正面から受け止められなくて、写真に目を落とした。
「玲奈のことは、嫌いじゃない。でも……」
「でも?」
「上手く言えない」
「悠真、いつもそれ言う」
紗奈の声が、少しだけ揺れた。
「上手く言えないって言って、何も言わないまま終わる。ずっとそう」
悠真はゆっくりと顔を上げた。
紗奈は視線を外さなかった。
「私もそうだけど」
その言葉の後、紗奈は少し笑った。
でも目は笑っていなかった。
「お互い、上手く言えないね」
チャイムが鳴った。
教職員が見回りに来る前に出なければ。
二人はほぼ同時に立ち上がり、荷物をまとめた。
廊下に出ると、夕暮れの光が床に伸びていた。
オレンジ色の光の中で、二人の影がまた、重なった。
悠真は何気なく、それを見た。
写真の中の影と、今目の前にある影。
同じだ。
でも、今の自分たちには、写真の中よりも少しだけ、距離がある気がした。
「帰ろ」
紗奈が言った。
「うん」
悠真は頷いた。
並んで歩き始めながら、悠真はずっと考えていた。
整理できてない、と言った。
でも本当は──
「紗奈」
「何?」
「……なんでもない」
紗奈は一瞬だけ悠真を見て、また前を向いた。
「そっか」
その「そっか」が、今夜はいつもより少し短かった。
悠真はそれに気づいて、また言葉を飲み込んだ。
自分が我慢すれば、丸く収まる。
いつからか身についたその癖が、今は少しだけ、怖かった。
──文化祭まで、あと六日。
悠真の胸の中で、まだ名前のついていない感情が、静かにその輪郭を濃くしていた。



