ベストフレンズ

 文化祭まで、あと二週間。

 写真部の部室では、展示用の作品選びが始まっていた。

 西川さんが「一人三点まで」と言った。部員それぞれが夏の間に撮りためた写真の中から、展示に出すものを選ぶ。

 悠真は自分のフォルダを開いて、夏の写真を見返していた。

 合宿で撮ったもの。川沿いで撮ったもの。何気ない日常の隙間に撮ったもの。

 多すぎて、選べなかった。



 玲奈が隣に来た。

「どれにするか決まった?」

 タメ口だった。

 先週、部室で西川さんが「同学年なんだからタメ口でいいじゃない」と言って、それからなんとなく切り替わっていた。

 玲奈のタメ口は、思ったより自然だった。丁寧さは残っていたが、距離が少し縮まった感じがした。

「全然決まらない」と悠真は言った。「多すぎて」

「見せて」

 悠真はカメラの液晶を玲奈に向けた。

 玲奈はゆっくりスクロールしながら見ていった。

 途中で手が止まった。

「これ」と玲奈が言った。

 一枚の写真だった。

 川沿いの夕方。光が水面に落ちていた。そこだけ見ると風景写真なのだが、画面の端に人の影が二つ、写り込んでいた。

 並んで歩いている二人の影。

 誰かは分からない。ただ、二つの影が同じ長さで、同じ方向に伸びていた。

「これ、いいと思う」と玲奈は言った。

「これは……」と悠真は言いかけた。

「何?」

「これ、紗奈と歩いてた時に撮ったやつで」

 玲奈は写真をもう一度見た。

「それは関係ない」と玲奈は言った。「写真として、いいと思う」

「そうかな」

「うん。影だから誰かは分からないけど、二人がいることは伝わる。距離感が、いい」

 距離感。

 悠真はその言葉を聞いて、少し考えた。

 近くて、でも触れていない。並んでいるのに、それぞれの輪郭がはっきりしている。

 写真の話をしているのか、別の何かの話をしているのか、一瞬分からなくなった。

「出してみます」と悠真は言った。

「そうして」



 玲奈は自分のフィルムを現像に出していた。

 合宿で撮った三本分。現像が上がってきたのが先週で、今日初めて実物を見ていた。

 悠真は隣で玲奈が写真を見る様子を、横から見ていた。

 玲奈の表情が、少しずつ変わっていった。

 いい写真の時は、ほんの少し目が柔らかくなる。そうでない時は、静かに次へ移る。

「どうだった?」と悠真が聞いた。

「三枚、気に入ってるのがある」

「見せて」

 玲奈が三枚を並べた。

 一枚目は、山の朝霧だった。木の輪郭が霧に溶けていた。

 二枚目は、古民家の縁側から見た山の稜線だった。夕日が稜線の向こうに沈む直前の色だった。

 三枚目は──悠真だった。

 川沿いを歩きながらカメラを構えている悠真の後ろ姿。本人は気づいていなかった。

「これ、俺ですか」

「そう」

「いつの間に」

「二日目の午前中」と玲奈は言った。「被写体のいない写真ばかり撮ってるから、人を入れてみようと思って」

「勝手に撮られてた」

「ごめん」と玲奈は言った。でも謝っている感じがあまりしなかった。「展示に出していい?」

「俺の写真を?」

「後ろ姿だから、誰か分からない」

「まあ……いいですけど」

「タメ口」と玲奈が言った。

「あ、いいけど」

「うん」と玲奈は少し笑った。

 悠真は自分の後ろ姿の写真を見た。

 カメラを構えて、川を向いている後ろ姿。

 自分の写真なのに、なんだか遠い人みたいに見えた。

「俺って、こんな感じに見えるんですか」

「タメ口」

「こんな感じに見える?」

「どんな感じに見える、って思ってるの」

「なんか、一人みたいで」

「一人で撮ってたから」と玲奈は言った。「でも、そういうところが好きで撮ったんだけど」

「一人でいるところが好きって、寂しくないですか」

「タメ口って言ったじゃん」

「……寂しくない?」

「寂しい、じゃなくて」と玲奈は写真を見ながら言った。「ちゃんと自分の世界がある感じ、がする写真だから」

 悠真はもう一度、自分の後ろ姿を見た。

 ちゃんと自分の世界がある感じ。

 そう言ってもらえると、悪くない気がした。



 作業が一段落して、二人は部室の窓際に座った。

 外は暗くなり始めていた。

 九月の夕方は、八月より早く暗くなる。

「文化祭、楽しみ?」と玲奈が聞いた。

「まあ、そこそこ」と悠真は言った。「この学校の文化祭、初めて見る側じゃなくてやる側になるから」

「去年は?」

「去年も一応やったけど、一年の時は先輩についていくだけだったから。今年は自分たちで決めてる感じがある」

「そっか」と玲奈は言った。「私、この学校の文化祭は初めてだから、比べるものがないけど」

「前の学校の文化祭はどうだったの」

「普通だった」と玲奈は言った。「どこの学校でも、文化祭は似たような感じかな、と思ってたけど」

「今はどう思う?」

「少し違う気がしてきた」

「何が」

「一緒に準備してる人たちが、ちゃんといる感じがするから」と玲奈は言った。少し考えながら。「前の学校の時は、準備してる間もどこかよそ者みたいな感覚があって」

「今はよそ者じゃない?」

「まだ少しあるけど」と玲奈は言った。「でも今年は、ここにいる感じがする」

 悠真はその言葉を聞いて、なんとなく嬉しかった。

「それはよかった」

「うん」と玲奈は言った。「朝比奈く──悠真が話しかけてくれたから、だと思う。最初に」

 名前で呼んだ。

 タメ口になってから、初めてだった。

 悠真は少し驚いて玲奈を見た。

 玲奈は窓の外を見ていた。耳が少し赤かった。

「……どういたしまして」と悠真は言った。

「変なこと言ったね、忘れて」

「忘れない」

「忘れて」

「覚えておく」

 玲奈は悠真を見た。少し困ったような、でも嫌ではなさそうな顔だった。

「悠真って、たまにそういうことするよね」

「そういうこと?」

「人が流したいことを、流させてくれない」

「そう?」

「そう」と玲奈は言った。「紗奈さんには、逆にそれができてないのに」

 悠真は少し黙った。

「……痛いとこ突いてくるな」

「ごめん」と玲奈は言った。今度は本当に謝っている感じがした。「でも、そう思って」

「合ってるから、何も言えない」

 玲奈は少し間を置いた。

 それから、静かに言った。

「悠真に、一つ言ってもいい?」

「どうぞ」

「前に、自分の感情の理由をそのうち言うって言ったやつ」

「覚えてる」

「言ってもいい?」

 悠真は玲奈を見た。

 玲奈は窓の外を向いていた。

「聞く」と悠真は言った。

 玲奈は少しの間、黙っていた。

 外で風が吹いた。木が揺れる音がした。

「私、悠真のことが好きだと思う」と玲奈は言った。

 静かな声だった。

 告白、というより──確認しているような言い方だった。自分の感情を、声に出して確かめているような。

「思う、って」と悠真は言った。

「はっきりとは言えないから」と玲奈は言った。「でも、好きに近い何かがある、とは思ってる」

「それを、俺に言う?」

「言わないと前に進めない気がして」

 悠真は何も言えなかった。

 玲奈は続けた。

「返事は今じゃなくていい。というか、今すぐ返事されても困る」

「なんで」

「悠真の中に、まだ別の感情があるから」と玲奈は言った。静かに、でもはっきりと。「それが片付いていない状態で答えをもらっても、お互いにちゃんとしたことにならない」

 悠真は玲奈を見た。

 玲奈はまだ窓の外を見ていた。横顔が、夕方の残光を受けていた。

「……橘さんって」と悠真は言いかけた。

「玲奈でいい」と玲奈は言った。

「玲奈って」

「うん」

「自分のことより、人のことを先に考えるんだな」

 玲奈は少し笑った。

「そうしないと、うまくいかないことが多かったから」

「それは、玲奈が損してる」

「そうかもしれない」と玲奈は言った。「でも今は、それでいいと思ってる」

 悠真は何も言えなかった。

 何か言うべきだとは思った。

 でも何を言っても、今夜は足りない気がした。

「ありがとう」とだけ、悠真は言った。

「うん」と玲奈は答えた。



 部室を出た。

 玲奈は「先に行くね」と言って、足早に廊下を歩いていった。

 悠真はしばらく部室の前に立っていた。

 玲奈の言葉が、頭の中に残っていた。

悠真の中に、まだ別の感情があるから。それが片付いていない状態で答えをもらっても、お互いにちゃんとしたことにならない。

 片付いていない感情。

 紗奈のことだ、と悠真には分かっていた。

 玲奈にも、分かっていた。

 それを分かった上で、言ってくれた。

 悠真は廊下の窓を見た。

 外はもう暗かった。

 自分の顔が、ガラスに反射していた。

 答えを出さないといけない、と思った。

 どちらに対しても。

 でも今夜は、まだ出せなかった。


 家に帰ると、紗奈からメッセージが来ていた。


紗奈 18:52
今日遅かったね
写真部?



悠真 19:24
そう、展示の選考してた



紗奈 19:25
どんな写真出すの?


悠真 19:25
川沿いのやつ
影が二つ写ってるやつ


 少し間があった。


紗奈 19:27
それって、私たちが歩いてた時の?



悠真 19:28
そう


 また間があった。

 今度は少し長かった。


紗奈 19:31
見たい
文化祭で見るね



悠真 19:31
うん



紗奈 19:32
楽しみにしてる

 悠真はその言葉を見た。

 楽しみにしてる。

 その五文字が、今夜は少しだけ重かった。

 玲奈の言葉と、紗奈の言葉が、頭の中で並んでいた。

 どちらも、大切な言葉だった。

 だからこそ──どちらかを選ぶことが、今の悠真には、まだできなかった。