実家には、毎年春になると見事な薄紅色の花を咲かせる、一本の大きな八重桜の木があった。
ある春の早朝のことだ。
自室で百物語をし終えた私は、少し頭を冷まそうと、庭へ出た。八重桜の木の根元に近寄ると、そこに見慣れない美しい女性が佇み、声を殺して激しく泣いていた。
私の足音に気づいた彼女は、涙に濡れた瞳を向け、信じられないような話をぽつりぽつりと私に聞かせた。
彼女はこの八重桜の木の精霊なのだという。そして、この木の寿命は皮肉にも今年で完全に尽きてしまうのだと、告げた。
桜の木の隣には見事な藤の棚があるのだが、その藤の花と八重桜は、深く愛し合う、いわば相思相愛の関係なのだという。
桜と藤の開花時期は少しずれている。だから、毎年、彼女は愛する藤の木に少しでも自分の美しい姿を見せたくて、ボロボロになりながら必死に持ちこたえ、藤の花が咲き匂う初夏の手前まで満開のままでいるよう、命を削って無理をしていたのだという。
「でも、今年はもう……藤の彼が咲く前に……明日には私の花の盛りは完全に過ぎて、散ってしまうのです。最期に別れの言葉すら伝えられないのが、悲しくて、悔しくて……」
彼女はそう言って、再び激しく咽び泣いた。私は、彼女たちの種族を超えた健気な悲恋を、ひどく哀れに思った。
私は一度部屋に戻り、何の上品な刺繍もない、空色の無地の布地を広げて持ってきた。そして、泣き崩れる桜の精霊にこう言ってやった。
「この布を、あなたの木の根元に敷いておいてあげる。だから、夜が明けきる前に、あなたの最後の命を振り絞って、この布地の上に、ありったけの花びらを降らせるといいわ」
日が昇って、庭に出てみると、あれほど見事だった八重桜は見る影もなく、まるで魂を抜かれたようにほとんどすべての花を地面に散らしつくしていた。
私が敷いておいた空色の布の上には、計算通り、精霊が最後の力で降らせた無数のピンク色の花びらが美しく定着し、見事な花吹雪模様の反物が出来上がっていた。
私は、その布地をすぐに馴染みの仕立て屋に持ち込み、美しい着物を作らせた。
それからしばらくして。季節は移り変わり、隣の藤の花が紫色の美しい花房をこれでもかと咲かせ、見事な香りを放ち始めた。
家族や親戚たちが集まり、その藤の木の下で賑やかに花見をすることになった。私はもちろん、あの八重桜の布地で仕立てた着物を身に纏って部屋を出た。
それを見た母は、ひどく眉をひそめて私を叱りつけた。
「もう桜の季節なんてとっくに終わって、今は藤が主役の時期ですよ。そんな時期外れの桜の柄の着物を着て外に出るなんて。恥ずかしいから、今すぐ他の着物に着替えてちょうだい」
私はその言葉を完全に無視して、そのまま庭の藤棚へと歩いていった。そして、紫色の長い花房が垂れ下がる、藤の木の真下にすっと立った。
その瞬間だった。
風もないのに、頭上の藤の花房がふるふると激しく震え始めた。
そして、まるで泣きじゃくる人間が恋人に抱きつくかのように、ほろほろと、無数の紫色の藤の花びらが一斉に零れ落ち、私の空色の袖や、そこに描かれた桜の模様に、愛おしそうに、しがみつくようにまとわりついたのだった。
種族を超えた愛に私は深く感動した。百物語を開催した折に、恋人にこの話を聞かせてあげた。



