囮作戦の披露宴が開催されるまで一カ月となった。その間、小春は大変忙しい日々を過ごしていた。特にジェームズによるアスター伯爵夫人教育は大変厳しかった。ジェームズ曰く「ここで舐められるわけにはいかない」との事で、かなりの詰め込み教育が行われた。
「小春様、こちらが招待客リストです」
「こんなに」
目の前に置かれた書類の山に、小春は気が遠くなった。招待状を出した百人の顔写真や家柄、経歴、趣味などが書かれてあり、とても覚えられる気がしなかった。
「表向きはイギリスと日本の架け橋となるお二人の結婚ですから。これでも今回は急なことでイギリスからの招待客が呼べないので少ない方ですよ」
「そう、ですよね」
確かに日本人ばかりだ。それだけでも救いなのかもしれない。よくよく見ると小春でも知っているような有名な陰陽師もいた。どうやら小春に配慮された人選のようだ。
ーー頑張ろう。
その心遣いを無駄にするわけにはいかない。小春はため息をつきつつも覚悟を決めた。
「それと作戦についてですが」
そしてジェームズはもう一枚の書類を差し出した。そこには会場の見取り図や連絡方法などが書かれている。
「披露宴ではロイ様と一緒に招待客への挨拶をして回っていただきます。そしてロイ様からの合図で小春様は一人になる時間を作ってもらいます。誰かとぶつかって割れたグラスで怪我をする、という筋書きです。怪我の手当てのため会場を退出したところが吸血鬼にとっての狙い目になりますから、そこは気をつけて下さい。その後吸血鬼が現れたら多狼で我々を呼んでください」
「分かりました」
小春にやる気が満ちていく。ここで必ず吸血鬼を捕まえるんだ、と思うと体が少し強張る。
「それでは招待客リストは一週間後にテストしますので」
そう言い残してジェームズは去って行った。ジェームズの「テスト」の一言は小春のやる気を綺麗さっぱり無くさせたのだった。
そして当然、陰陽師としての修行も欠かせない。
椎原邸での出来事を見ても、小春はやはり力不足だった。披露宴までの間も、小春は欠かさず笠木からの指導を受けていた。
今日は小鬼を二体呼び出す事ができた。
「小春様、大変結構です」
しかし小春の表情は晴れない。本来ならもっと沢山のあやかしを従えて、吸血鬼との対決に挑みたかった。手札はいくらあっても足りないくらいなのだ。
「浮かない顔ですね」
笠木も小春の納得いっていない様子に気がついていた。小春は椎原邸での事を思い出して俯いた。
今思い出しても、不甲斐ないと思ってしまう。
「この前、私は何もできませんでした。仲良くしてくれているあやかし達に守られただけです」
あやかし達が来ていなければ、今頃小春は吸血鬼に血を飲まれてしまい、さらに厄介な事態になっていたに違いない。
しかし笠木はゆっくり首を横に振った。
「それも充分立派な陰陽師としての力だと思いますよ」
「え?」
「普通なら主人の命令でしか動かないあやかしが、自らの意思で人間を守ろうとするなんて素晴らしいことです。ある意味陰陽師の本来の姿なのかもしれませんね」
「……そうでしょうか」
「ええ。自信を持ってください」
あやかしが小春を当たり前に助けてくれるので忘れていたが、普通の人間はあやかしとこんなに仲良くない。血のおかげだとしても、それも小春の実力のうちなのは違いないのだ。
そう思うと、少し自信が湧いてきた。
「笠木先生。私、実戦となると怖くなってしまうんです。怖くならなくするにはどうすれば良いですか?」
きっと悪鬼の件がトラウマになっている。戦うとなるとどうしても手足が震える。どんなに覚悟していても動きが鈍くなってしまうのだ。
「それは実戦を積むしかありませんね」
「笠木先生。私、披露宴までに少しでも強くなりたいです」
このままではいけない、と決意のこもった目で笠木を見つめた。その目に笠木も少し困ったように笑った。
「しかたありませんね。本当は無理のない範囲で、とロイ様から言われているのですが……私がロイ様を説得しましょう」
「ありがとうございます!」
ロイは小春に無理してほしくなかった。だからこそ実戦にはなかなか頷こうとしなかった。だが今の小春に必要なのは実戦だ。それを小春自身もよく分かっている。
ーー本当にロイ様は良い女性に出会いましたね。
笠木は心の底からそう思った。両親が亡くなってから心を開く事が少なくなったロイ。そのロイが無意識のうちに真綿で包む様に大事にしている小春。その小春自身が守られるだけではなく、ロイの力になりたいと望んでいるのだ。
ーーこれが期間限定なのが惜しいですね。
笠木には二人を見守ることしかできない。けれど二人がこれからも共に寄り添って行ける未来を願わずにはおれないのだった。
それから小春の修行を終えた笠木はすぐに動いた。
「失礼しますよ」
「笠木か」
疲れ切った表情のロイが、執務机から顔を上げた。かなり仕事が立て込んでいるのだろう。少し苛立って見えた。
「お忙しそうですね」
「お前はいいな。修行といって小春と一緒にいられるんだから」
そんな愚痴まで言われてしまった。自分だって少しでも小春のそばにいたいのに、とぶつぶつ呟いている。そんなロイの姿に、笠木は目を丸くした。
「なんだ?」
「いえ。随分素直になられましたね」
指摘されてようやく気がついたのか、ロイは気恥ずかしそうにそっぽ向いた。
「……実はな」
そして観念して本音を話し始めた。
「椎原家を訪ねたあの日から小春が……いや小春の血が欲しくてたまらないんだ」
「ブラッドタブレットの量を増やされてはどうですか?もともと最小限しか飲んでないのですし」
「そうだな」
しかしロイは全く納得していない表情をしていた。血が欲しいのではない。小春の血が欲しいのだ。
ーーもっと違う感覚なんだよな。
喉が渇いた時のような吸血衝動ではない。本能的に小春を求めているような感覚に近いのだ。
誰よりも大切にしたいのに、めちゃくちゃにしてやりたい。誰にも見せたくないが、皆に自慢したい。矛盾する気持ちがロイの中でぐるぐる回っている。
しかしこの気持ちをうまく言葉で表せない。
「それで何の用だ?」
「小春様のことです。小春様の修行は順調ですが、実戦が足りていません。そこで低級妖怪の討伐に向かいたいのです」
ロイは嫌そうな顔を見せた。これは予想通りの反応だった。しかし笠木もここで折れるわけにはいかやかった。
「小春様はロイ様のためにと努力されています」
「分かってる」
ロイ自身にも小春に足りないものは分かっていた。そして作戦決行の日も近い。行かせたくない気持ちと葛藤しつつ、ロイは小さく頷いた。
「傷一つつけさせるなよ」
「勿論ですよ」
笠木もいるのだから何も心配はない。
ーー焦っても仕方ないのに。何故か焦燥感に駆られるな。
ロイは気を紛らすために、再び書類と向き合ったのだった。
◆◆◆
夜も更けた頃、ロイはようやく執務机から離れた。少し何か食べようと部屋を出た時、小春と出会った。
「ロイ様」
「小春か」
こんな夜遅くに、とロイは思ったが、小春はどうやらロイのことを待っていたようで安堵の表情を見せた。
「あの実戦練習認めてくださりありがとうございます」
「あ、ああ。頑張ってくれ」
本当は行かせたくない、なんてもう言えない。ロイは視線を泳がせた。
「ロイ様、顔色が良くありませんよ」
「ちょっと仕事が立て込んでいるからな」
小春は一気に不安になってしまった。そしておずおずと話し出した。
「あの、やっぱり私の血を飲んだ方が良いのではありませんか?」
「なんだと?」
ロイは眉間に皺を寄せた。あからさまに不機嫌になったロイに、小春は食い下がろうとした。
「そうすれば」
しかし小春の言葉は遮られた。
ダンッ!!
と、強く壁を叩く音が、静かな夜の屋敷に響いた。小春は言葉を失い、顔を青くしてロイを見つめていた。
ロイは怒りを抑えように拳を強く握りしめた。そして悔しそうに顔を歪め、小春を睨みつけた。
「俺を吸血鬼扱いするな」
その言葉に、小春はひゅっと喉を鳴らした。
「も、申し訳ありませんでした」
そう言って小春は逃げるように自室に戻って行った。
ーー怒らせた。
小春はもうロイの方を振り返ることができなかった。こんな事になるなんて想像できなかった。良かれと思って言ったはずだったのに。
ーー私、自分勝手だった。ロイ様に無神経なこといっちゃった。
ロイの怒りに満ちた目が小春の心に突き刺さって取れそうにない。
小春が逃げるように部屋の中に入ると、扉に寄りかかってずるずるとその場にへたり込んだ。
「どうしよう」
嫌われたくない。ロイに謝りたい。
でも許してくれなかったら?
不安と恐怖と後悔で小春はカタカタと震えた。
どうすればいいのか、もう分からない。
「ふっ……くぅっ……」
自分のせいだ。誰も責められない。小春は声を殺して涙を流した。
「小春様、こちらが招待客リストです」
「こんなに」
目の前に置かれた書類の山に、小春は気が遠くなった。招待状を出した百人の顔写真や家柄、経歴、趣味などが書かれてあり、とても覚えられる気がしなかった。
「表向きはイギリスと日本の架け橋となるお二人の結婚ですから。これでも今回は急なことでイギリスからの招待客が呼べないので少ない方ですよ」
「そう、ですよね」
確かに日本人ばかりだ。それだけでも救いなのかもしれない。よくよく見ると小春でも知っているような有名な陰陽師もいた。どうやら小春に配慮された人選のようだ。
ーー頑張ろう。
その心遣いを無駄にするわけにはいかない。小春はため息をつきつつも覚悟を決めた。
「それと作戦についてですが」
そしてジェームズはもう一枚の書類を差し出した。そこには会場の見取り図や連絡方法などが書かれている。
「披露宴ではロイ様と一緒に招待客への挨拶をして回っていただきます。そしてロイ様からの合図で小春様は一人になる時間を作ってもらいます。誰かとぶつかって割れたグラスで怪我をする、という筋書きです。怪我の手当てのため会場を退出したところが吸血鬼にとっての狙い目になりますから、そこは気をつけて下さい。その後吸血鬼が現れたら多狼で我々を呼んでください」
「分かりました」
小春にやる気が満ちていく。ここで必ず吸血鬼を捕まえるんだ、と思うと体が少し強張る。
「それでは招待客リストは一週間後にテストしますので」
そう言い残してジェームズは去って行った。ジェームズの「テスト」の一言は小春のやる気を綺麗さっぱり無くさせたのだった。
そして当然、陰陽師としての修行も欠かせない。
椎原邸での出来事を見ても、小春はやはり力不足だった。披露宴までの間も、小春は欠かさず笠木からの指導を受けていた。
今日は小鬼を二体呼び出す事ができた。
「小春様、大変結構です」
しかし小春の表情は晴れない。本来ならもっと沢山のあやかしを従えて、吸血鬼との対決に挑みたかった。手札はいくらあっても足りないくらいなのだ。
「浮かない顔ですね」
笠木も小春の納得いっていない様子に気がついていた。小春は椎原邸での事を思い出して俯いた。
今思い出しても、不甲斐ないと思ってしまう。
「この前、私は何もできませんでした。仲良くしてくれているあやかし達に守られただけです」
あやかし達が来ていなければ、今頃小春は吸血鬼に血を飲まれてしまい、さらに厄介な事態になっていたに違いない。
しかし笠木はゆっくり首を横に振った。
「それも充分立派な陰陽師としての力だと思いますよ」
「え?」
「普通なら主人の命令でしか動かないあやかしが、自らの意思で人間を守ろうとするなんて素晴らしいことです。ある意味陰陽師の本来の姿なのかもしれませんね」
「……そうでしょうか」
「ええ。自信を持ってください」
あやかしが小春を当たり前に助けてくれるので忘れていたが、普通の人間はあやかしとこんなに仲良くない。血のおかげだとしても、それも小春の実力のうちなのは違いないのだ。
そう思うと、少し自信が湧いてきた。
「笠木先生。私、実戦となると怖くなってしまうんです。怖くならなくするにはどうすれば良いですか?」
きっと悪鬼の件がトラウマになっている。戦うとなるとどうしても手足が震える。どんなに覚悟していても動きが鈍くなってしまうのだ。
「それは実戦を積むしかありませんね」
「笠木先生。私、披露宴までに少しでも強くなりたいです」
このままではいけない、と決意のこもった目で笠木を見つめた。その目に笠木も少し困ったように笑った。
「しかたありませんね。本当は無理のない範囲で、とロイ様から言われているのですが……私がロイ様を説得しましょう」
「ありがとうございます!」
ロイは小春に無理してほしくなかった。だからこそ実戦にはなかなか頷こうとしなかった。だが今の小春に必要なのは実戦だ。それを小春自身もよく分かっている。
ーー本当にロイ様は良い女性に出会いましたね。
笠木は心の底からそう思った。両親が亡くなってから心を開く事が少なくなったロイ。そのロイが無意識のうちに真綿で包む様に大事にしている小春。その小春自身が守られるだけではなく、ロイの力になりたいと望んでいるのだ。
ーーこれが期間限定なのが惜しいですね。
笠木には二人を見守ることしかできない。けれど二人がこれからも共に寄り添って行ける未来を願わずにはおれないのだった。
それから小春の修行を終えた笠木はすぐに動いた。
「失礼しますよ」
「笠木か」
疲れ切った表情のロイが、執務机から顔を上げた。かなり仕事が立て込んでいるのだろう。少し苛立って見えた。
「お忙しそうですね」
「お前はいいな。修行といって小春と一緒にいられるんだから」
そんな愚痴まで言われてしまった。自分だって少しでも小春のそばにいたいのに、とぶつぶつ呟いている。そんなロイの姿に、笠木は目を丸くした。
「なんだ?」
「いえ。随分素直になられましたね」
指摘されてようやく気がついたのか、ロイは気恥ずかしそうにそっぽ向いた。
「……実はな」
そして観念して本音を話し始めた。
「椎原家を訪ねたあの日から小春が……いや小春の血が欲しくてたまらないんだ」
「ブラッドタブレットの量を増やされてはどうですか?もともと最小限しか飲んでないのですし」
「そうだな」
しかしロイは全く納得していない表情をしていた。血が欲しいのではない。小春の血が欲しいのだ。
ーーもっと違う感覚なんだよな。
喉が渇いた時のような吸血衝動ではない。本能的に小春を求めているような感覚に近いのだ。
誰よりも大切にしたいのに、めちゃくちゃにしてやりたい。誰にも見せたくないが、皆に自慢したい。矛盾する気持ちがロイの中でぐるぐる回っている。
しかしこの気持ちをうまく言葉で表せない。
「それで何の用だ?」
「小春様のことです。小春様の修行は順調ですが、実戦が足りていません。そこで低級妖怪の討伐に向かいたいのです」
ロイは嫌そうな顔を見せた。これは予想通りの反応だった。しかし笠木もここで折れるわけにはいかやかった。
「小春様はロイ様のためにと努力されています」
「分かってる」
ロイ自身にも小春に足りないものは分かっていた。そして作戦決行の日も近い。行かせたくない気持ちと葛藤しつつ、ロイは小さく頷いた。
「傷一つつけさせるなよ」
「勿論ですよ」
笠木もいるのだから何も心配はない。
ーー焦っても仕方ないのに。何故か焦燥感に駆られるな。
ロイは気を紛らすために、再び書類と向き合ったのだった。
◆◆◆
夜も更けた頃、ロイはようやく執務机から離れた。少し何か食べようと部屋を出た時、小春と出会った。
「ロイ様」
「小春か」
こんな夜遅くに、とロイは思ったが、小春はどうやらロイのことを待っていたようで安堵の表情を見せた。
「あの実戦練習認めてくださりありがとうございます」
「あ、ああ。頑張ってくれ」
本当は行かせたくない、なんてもう言えない。ロイは視線を泳がせた。
「ロイ様、顔色が良くありませんよ」
「ちょっと仕事が立て込んでいるからな」
小春は一気に不安になってしまった。そしておずおずと話し出した。
「あの、やっぱり私の血を飲んだ方が良いのではありませんか?」
「なんだと?」
ロイは眉間に皺を寄せた。あからさまに不機嫌になったロイに、小春は食い下がろうとした。
「そうすれば」
しかし小春の言葉は遮られた。
ダンッ!!
と、強く壁を叩く音が、静かな夜の屋敷に響いた。小春は言葉を失い、顔を青くしてロイを見つめていた。
ロイは怒りを抑えように拳を強く握りしめた。そして悔しそうに顔を歪め、小春を睨みつけた。
「俺を吸血鬼扱いするな」
その言葉に、小春はひゅっと喉を鳴らした。
「も、申し訳ありませんでした」
そう言って小春は逃げるように自室に戻って行った。
ーー怒らせた。
小春はもうロイの方を振り返ることができなかった。こんな事になるなんて想像できなかった。良かれと思って言ったはずだったのに。
ーー私、自分勝手だった。ロイ様に無神経なこといっちゃった。
ロイの怒りに満ちた目が小春の心に突き刺さって取れそうにない。
小春が逃げるように部屋の中に入ると、扉に寄りかかってずるずるとその場にへたり込んだ。
「どうしよう」
嫌われたくない。ロイに謝りたい。
でも許してくれなかったら?
不安と恐怖と後悔で小春はカタカタと震えた。
どうすればいいのか、もう分からない。
「ふっ……くぅっ……」
自分のせいだ。誰も責められない。小春は声を殺して涙を流した。


