妖怪姫は悪魔伯爵に食べられたい


 まだあやかしと人間の境が曖昧だった明治時代。
 日本国で古くから陰陽師として地位を築いてきた一族達がいた。彼らはこれまでとは違う混沌とした時代に戸惑いながらも、明治時代に入ってもあやかし達との仲介役を担っていた。
 その一角に、椎原家も名を連ねている。陰陽師の大家とは言わないものの、古くから続く陰陽師の一族で関東の小さな町であやかし達と町民の仲介役をしてきた。椎原家は町の中でも立派な屋敷を構えており、多くの使用人達も雇っている。
 そんな椎原家の屋敷の片隅に、薄暗く人目につかない小部屋があった。昼間でも日の光がささない部屋の中には、椎原小春という椎原家直系の姫君が今日も一人で過ごしているーーはずだった。

「ねえ。聞こえない?」
「聞こえる……また独り言だわ」

その部屋からは、いつも声が聞こえてくる。小春以外は誰もいないはずなのに、楽しそうに会話する声がボソボソと廊下に響いている。
 掃除をしていた使用人達は鳥肌がたった。真っ青になった顔を見合わせて、カタカタと小さく震えている。恐る恐る聞き耳を立てた使用人達は今度ははっきりと聞き取ってしまった。

「そんなことしてはダメよ」
「ダッテー」
「あんまり言うこと聞かないと退治するわよ」
「ハァイ」

まるで誰かがいるかのような声に、使用人達は震えが止まらない。使用人達は慌ててその場を片付け始めた。

「怖い!きっとあやかしと遊んでいるのよ!」
「わ、私嫌よ!あやかしなんて!」

こんな気味の悪いところを掃除なんてしていられるものか、と言わんばかりだ。

「お、奥様に報告しましょうよ」
「そうね。こんな事勘弁してもらわないと」

使用人達はバタバタと足音を立てて逃げ去っていった。
 するとスッと部屋の襖が開いた。
 そこから顔を出したのは小春だった。艶のある黒髪に、白い肌、赤い唇の美しい少女だ。作法の行き届いた美しい所作が小春の美しさを引き立てている。
 小春はこてんと首を傾げた。

「ドウシタノ?小春」
「いえ。何だか外が騒がしかったから……」
「気ニシ無クテ、イイヨー」
「遊ボウ」

部屋の中には手のひらくらいの大きさの小鬼や一つ目など小さなあやかし達が数匹いた。中には薄透明の羽の生えた金髪のあやかしまでいる。可愛い見た目の彼らは小春の周りをちょろちょろと動き回って「遊ボウ」「遊ボウ」と言っている。

「わかったわ。でも騒がしくしてはダメよ?またお母様に怒られちゃうんだから」

小春の言葉にあやかし達は元気よく返事した。しかし小春が襖を閉めるときゃっきゃっとはしゃぎ部屋の中を駆け回り始めた。そんなあやかし達を見て、小春はため息をついた。
 その時。遠くから静かな足音が聞こえてきた。

「みんな、隠れて!誰か来るわ!」

小春の声にあやかし達はすっと姿を消した。目に見えないだけでこの部屋の中にいるのだろうけど、小春はほっと胸を撫で下ろした。
 と、次の瞬間。勢いよく襖が開けられた。
 そこには高級な着物に身を包んだ小春の母親・椎原千代が立っていた。黒髪に白い肌の小春と似た顔立ちをした美女だが、その雰囲気は刺々しいものだった。

「どうされましたか?お母様」

千代は小春の問いかけに答えず、部屋の中をジロジロ見回した。眉間に皺を寄せ、臭いものを前にしたかのように着物の袖で鼻と口を塞いでいる。

「貴方が独り言を言っていると聞いたの」
「それは……」

小春は視線を泳がせた。千代も陰陽師の端くれ。しかも結界を得意としている陰陽師だ。きっと部屋の中のあやかしの気配を感じ取っているだろう。

ーーきっとお母様は気づいてる。下手に嘘つく訳にはいかない……。

千代は小春を睨みつけ、重いため息をついた。

「気味が悪い」
「すみません」
「この屋敷の結界も、この部屋の結界も、私が施したのよ。隠しても無駄だから」

あやかしが隠れていることは、やはり千代にはお見通しだったようだ。小春は俯いて何も言えなかった。

「ただでさえ厄介者なんだからこれ以上迷惑かけないで」
「はい……すみません」

小春はただ謝るしか出来なかった。

「もうすぐ夕食よ。遅れないでちょうだい」

ピシャっ!
 来た時と同じように勢いよく襖を閉められて、小春はびくりと肩を震わせた。そして遠ざかっていく足音に少し胸を撫で下ろした。
 するとあやかし達が次々と姿を現し始めた。

「オコリンボ婆ア」
「怒リスギテ皺ダラケ」
「シワシワ婆ア?」
「妖怪シワシワ〜」
「こら!」

そして好き放題言ってきゃっきゃっとはしゃいでいる。

ーー昔から厳しい人だったけど、あの事件からお母様は変わってしまったわ……。

小春はしんみりしてしまった。小春一人薄暗い部屋にいるのも、母親である千代からあんな素っ気ない態度を取られるのも小春の血のせいなのだ。

ーーこの血のせい、なんだよね。

小春は今でも鮮明にあの日のことを思い出す。

 あれは、二年前のこと。
 小春は椎原家の直系の姫君として跡取りに相応しい陰陽師の教育を受けていた。そしてあの日も教師の指導のもと、いつものように小春が使役妖怪を呼び出す練習をしていた。
 小春が人差し指と中指を立てて「我が声に応えよ」と唱えると、足元が光り、青白い炎と共に三匹の狐のあやかしが現れた。それを見た教師は満足した表情で頷いた。

「さすがです、小春様」
「ありがとうございます」

呼び出された狐のあやかし達は小春の足元に擦り寄って喉を鳴らしている。その様子を見て教師は「おお」と感嘆した。

「小春様は本当にあやかしに懐かれますね。陰陽師として珍しく素晴らしい素質ですよ」
「そうだと嬉しいわ」
「では次は秋穂様、やってみましょう」
「は、はい!」

小春には秋穂という従姉妹がいた。秋穂は椎原家の分家出身なのだが、陰陽師としての能力を認められて小春と一緒に修行していた。
 ふわふわの天然パーマの髪は黒というより茶に近く、瞳の色も茶色をしていた。そばかすのついた小麦色の肌は健康的に見える。美しくも冷たく見える小春とは違い、明るく活発に見える令嬢だ。
 しかし秋穂は小春より陰陽師としての能力が低かった。
 今だって呼び出せたのは小さなネズミの妖怪一匹だけ。秋穂は今にも泣きそうに顔を歪めた。教師は少し困ったような表情を見せて秋穂を慰めてくれた。

「秋穂様、気にしてはいけませんよ。秋穂様の得意な術を磨けば良いのですから」
「はい」

そうは言われても秋穂はどんよりと沈んでいる。教師は手をパンと叩いた。

「では今日はここまでにしましょう」

そう言って修行が終わった後、教師は一礼して去って行った。毎回教師は授業が終わると当主である小春の父親に報告に行くのだ。
 そんな教師の後ろ姿をじっと見つめ、秋穂は明らかに落ち込んだ。今日も上手くいなかったことを報告されるのかと思うと憂鬱になるのも分かる。
 小春は気まずそうに秋穂に声をかけた。

「秋穂、気にしちゃ駄目よ」
「小春様。でも私はせっかく本家で修行させてもらっているのです。きちんと結果を出さなくては」
「気負いすぎるとかえって良くないと思うの」

今の秋穂は空回りしている気がするのだ。秋穂は口をもごもごさせ、そしてきゅっと唇を結んだ。
 意を決したような表情に、小春は目を瞬いた。

「でしたらお願いしたい事があるんです」
「お願いしたいこと?」

秋穂は瞳にはじんわりと涙が溜まっている。その表情からも秋穂の決意が伝わってくる。その迫力に小春は少し後退りした。

「裏山には悪鬼を封じている祠がありますよね?もしその悪鬼を退治できたら、私も自信がつくと思うんです」
「え!?駄目よ!あれは強大な悪鬼なのよ!修行中の私たちではとても相手にできないわ!」

江戸時代のはじめ頃、この町を好き放題荒らしたため封印されたという悪鬼。その悪鬼の封印を守るのが椎原家の一番のお役目だった。それは椎原家一族なら誰でも知っている事だ。その封印を解こうなんて無謀な計画だった。
 しかし秋穂はなおも小春に迫った。

「そんな相手だからこそです!」
「え?」
「もしそんな相手を退治できたら町民のためにもなります。椎原家の皆にも認められます!それに小春様と一緒ならできると思うんですっ!」

秋穂の真剣な眼差しに小春の心は少し揺れ動いた。しかしゆっくりと首を横に振った。

「……やっぱり、そんな事できないわ」

例え秋穂のためでも先祖が命を賭して封印した悪鬼を解き放つなんて出来ない。
 そう思って、秋穂を説得しようと口を開こうとした時。

「小春様は椎原家の歴代陰陽師の中でも優秀だと皆噂してます。絶対大丈夫です!」

秋穂の言葉に小春は何も言えなかった。
 小春自身も最近自信が付いてきたので実力を試したい気持ちはあった。
 秋穂からも「優秀」と言われると気持ちがぐらついてしまった。
 そうして、行くだけなら、と思ってしまった。

「……分かったわ」
「小春様!」
「でも本当に行くだけだからね」
「はい!」

秋穂の満面の笑みを見て、小春はほっとした。
 これで良かったのだ、と思った。
 けれど、これが間違いだったとその後すぐに気付かされることになる。