契約花嫁は半吸血鬼伯爵に溺愛される。

「知りたい?」

意味深に聞き返すリカルドに、小春は首を横に振った。

「い、いえ。やっぱりいいわ」

このままではリカルドのペースに飲み込まれてしまいそうで、一歩後ろに下がる。すると秋穂は小春の腕をひねりながらきつく握りしめた。

「痛っ」

秋穂は小春をきつく睨みつけていた。

「逃がさないわよ」
「秋穂……」

憎しみのこもった秋穂の視線に小春は恐怖した。何故ここまで恨まれてしまったのだろうか、と思う。それとも目の前の吸血鬼に夢中で我を忘れてしまっているのか。
 小春は何と言っていいのか分からなかった。そしてどうすればこの場を乗り切れるのかも思いつかない。

「ふふ。元気があるんだね」

リカルドは小春と秋穂のやり取りを仔猫のじゃれあいのように眺めていた。
 そしてゆるりと小春の頬に手を伸ばした。リカルドの指が小春の白い肌を堪能するようになぞられていく。その手つきに小春はゾワゾワとした嫌な感覚を覚えた。

「嗚呼」

リカルドは恍惚とした笑みを浮かべていた。色気たっぷりで魅惑的な笑みに思わず小春も引き込まれてそうになった。

「美味しそう」

そう言って頬をさすっていく。ロイにさすられた時とは違う感覚に、思わず鳥肌が立ってしまった。

ーーひぃっ!

小春の顔が嫌悪感でいっぱいになった。そんな小春の表情が予想外だったのか、リカルドは目を丸くした。
 その隙をついて小春は何とか逃げようとリカルドから距離を取ろうとした。
 しかしリカルドも小春を捕まえようと爪を立ててしまった。そこに小春が急に動いたので、頬に一本の切り傷がついた。
 そこからほんの少しの血が流れる。

「いた……」

少しだけチクリとした痛みが走った。頬の傷は軽症で、痛みも一瞬だった。
 だが、それよりも目の前からはあはあと荒い息遣いが聞こえてくる方が気になった。
 恐る恐る前を向くと、リカルドが涎を垂らして小春をうっとりとした表情で見つめていた。そしてゆっくりとリカルドの手が伸びてくる。
 小春はもうリカルドに触られまいと距離を取ろうとしたが、秋穂に捕まって動けなかった。

「嗚呼……っ、なんて芳しい香りなんだ」

伸びてくる手から逃げようと、小春は必死に暴れてみた。絶対にリカルドに血を飲ませるものか、と必死だった。

「僕のものにしたい」

リカルドがそう言った時、秋穂の掴む力がぎゅっと強くなった。

「ちょっと!リカルド様!」

そして怒りの矛先はリカルドに向いた。秋穂に怒鳴られて、リカルドは我に返った。そして「秋穂が一番だよ」と穏やかな笑顔で取り繕った。見え透いた嘘だと小春は思ったが、秋穂はそれで満足したらしい。
 もうそれ以上リカルドには何も言わず、今度は小春を睨みつけてきたのだった。

「リカルド様を誘惑するな!」

とんだ言いがかりである。一部始終見ていたはずの秋穂から理不尽に責められ、小春も驚きを隠せない。小春の反省する様子がない事が気に入らなかったのか、秋穂の怒りはどんどんひどくなっていく。そうして怒鳴るだけでは足りず、秋穂は手を振り上げた。

「厄介者のくせにっ!」

そう言って勢いよく平手打ちしようと、手を振り下ろした。これは避けられないと思い、小春は思わず目を瞑った。激しい痛みを覚悟した。
 が、その時。
 どこからともなくワッとあやかし達が飛び込んできた。

「小春ニ近ヅクナー!」
「小春守ルー!」

そう言ってあやかし達は秋穂の腕に、わらわらとまとわり付いた。

「きゃ!何よこのあやかし達は!」

秋穂は咄嗟のことで小春から手を離し、あやかしを振り払おうと両手をバタバタさせた。
 すると小さく力もないあやかし達はぼとぼとと振り落とされていった。

「負ケルモンカー!」
「小春イジメルナー!」

それでもあやかし達は秋穂の足元で何とか引き止めようと蠢いている。秋穂はそんなあやかし達を容赦なく踏み潰そうとしていた。
 小春は思わず叫んだ。

「やめて!」

それでも秋穂が止まるわけがなく、足踏みをしたり、蹴り飛ばそうとした。だが、あやかし達は踏み潰される前に姿を消して上手く逃げているようだった。
 小春はどうすればいいのか分からず、ただただあやかし達を見守るしか出来なかった。

ーー私、修行したのに。また何も出来ないの?

悔しくて悲しくて。小春は拳をぎゅっと握りしめた。

ーーロイ様!

そして心の中で思わずロイの名前を叫んだ。

 その時だった。

「小春っ!!」

後ろの方からロイの声が聞こえてきた。そこには多狼と一緒に汗を流して必死に走ってくるロイの姿があった。
 それだけで小春は安心した。

「ロイ様!」

そして小春はロイに駆け寄った。ロイは両手を広げ、走ってくる小春を優しく抱きとめた。
 ロイの温もりに包まれて、小春はじんわりと瞳が滲んでいった。
 小春が安全になったと判断したのか、秋穂にまとわりついていたあやかし達は蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。ようやく煩わしさから解放された秋穂は、小春とロイを睨みつけた。

「悪魔伯爵!」

しかしロイは秋穂の睨みくらいでは全く怯まず、負けじと睨み返した。さすがにロイが来ては部が悪いと思ったのか、高みの見物をしていたリカルドがため息をついた。

「あーあ。残念」

聞き覚えのない男の声にロイは眉を寄せた。そして美貌の艶かしい美男子を見つけると、目を丸くした。

「貴様は!」
「見つかっちゃったか」

ロイの睨みにもリカルドは楽しそうに笑った。

「吸血鬼!」

仇を見つけた時のようにロイはリカルドを睨みつけた。そんなロイの視線から守るために、秋穂は庇うようにリカルドの前に立った。そしてロイを殺そうとする勢いで睨みつけた。
 ようやく落ち着きを取り戻した小春はロイの胸から顔を離した。

「ロイ様、来てくれてありがとうございます」
「いや。それより」

ロイから離れようとしたが、ロイはしっかりと小春の腰を抱き抱えていて、離そうとしない。離してもらうため「もう大丈夫」と言おうと顔を上げた時、ロイはじっと小春の頬を見つめていた。

「ロ、ロイ様?」

ロイの視線は小春の頬に固定されていた。

「この傷はどうした?」

そう言って小春の傷口を優しく撫でた。もう血も止まっていて痛みもない。小春は安心してもらおうと笑顔を作った。

「ただのかすり傷です」
「誰につけられた?」
「え」

小春が視線を逸らして言い渋ると、ロイの目は怒りに満ちていった。

「おのれ」

そしてその矛先は当然リカルドへと向けられた。

「吸血鬼めえぇーー!!!」

我を忘れてロイが叫んだ。いつも冷静なロイからは想像もつかない雄叫びに小春も思わず体をこわばらせた。

ーーえ?ロイ様?

よく見るとロイの歯が鋭く光っている。それはどう見ても吸血鬼の歯と同じ形だった。そしてその鋭い歯は秋穂にもしっかり見えていたようだ。

「まあ!貴方、悪魔じゃなくて吸血鬼でしたの?」
「いいや」

しかしリカルドは首を横に振った。面白いものを見つけたと言わんばかりの表情をしている。

「違うよ、秋穂。彼はね、半分だけ吸血鬼なんだよ」
「まあ!半端者でしたの!」

信じられない、と秋穂は軽蔑の視線を送る。そんな秋穂の視線を煩わしそうにロイは睨み返した。

「五月蝿い」

低い地を這うような声で凄まれて、秋穂は口を閉ざした。

ーーロイ様……?

こんなにも感情的なロイの姿は、とても尋常ではなかった。このままではロイが危ないと感じた小春は慌ててロイの腕に抱きついた。

「ロイ様!落ち着いてくださいっ!」

小春に抱きつかれて、ロイは動きを止めた。目を丸くして、大きな青い目で小春をじっと見つめている。心なしか少し耳が赤くなっていた。

「そうだよ。君じゃあ僕に敵わないだろ?」

それなのに揶揄うようにリカルドが挑発してきた。小春はまたロイが理性を失いかけるのではないかとハラハラして、ロイの腕に強く抱きついた。
 しかし小春の心配も杞憂に終わった。
 ロイはニヤッと不適な笑みを浮かべた。

「ふん。昼間の今なら貴様の方が不利だろう」

ロイの言い分にリカルドも口を閉ざした。そして「生意気な」とポツリ呟いたのだった。二人はしばらく睨み合っていた。
 とても割って入れるような雰囲気ではない。
 そんな二人の間には火花が散っているようにも見えた。
 そして先に折れたのはリカルドの方だった。

「さて、と。与太話はこのくらいにしようか」

そう言って一歩、また一歩と後ろに下がっていく。影の濃い方まで下がると、リカルドは愛想の良い笑顔を見せた。

「え、リカルド様?」

秋穂が少し焦ったような声を出した。

「居場所が知られちゃったら僕が不利だもんね」

そうして影の中へと沈んでいく。じわじわと足元の影の中に吸い込まれていくリカルドを、秋穂は必死に追いかけた。
 しかし秋穂は影の中には入れなかった。

「い、嫌です。置いていかないで」
「じゃあね、秋穂」

リカルドは無情にも秋穂を置いて一人逃げて行った。
 とぷん、という音が響いてリカルドは完全に姿を消した。
 秋穂は必死に影を掻きむしるが、床が傷つくだけでリカルドを追いかけることは叶わなかった。そして自分がリカルドから置いていかれた、つまり捨てられた事を理解するとポロポロと大粒の涙を流し始めた。

「嫌ああぁぁーー!!」

耐えきれず秋穂は悲痛な叫び声を上げた。しかしその声はもう、リカルドには届かないのであった。