冷徹軍師は敗国姫を手放さない

 「氷室様にお会いしたいのですが」

 侍女にそう告げると、意外にもすぐに許可が出た。
 風花は胸をなで下ろしながら、羽織を抱えて歩く。不慣れな針仕事で何度もやり直したが、ようやく形になった。
 氷室の書院に通される。

 「失礼いたします」

 風花は膝をつき、頭を下げる。

 「何だ」

 氷室の書院は、彼と同じ静寂に包まれていた。
 畳は真新しいほど整い、塵ひとつ落ちていない。 壁際には黒塗りの文机(ふづくえ)が置かれ、その上には巻物と筆、硯が並べられている。

 (なんて潔癖で、几帳面な人なのかしら……)

 ほのかに沈香の香りが漂っていた。――氷室からかいだ香りはこれだったのだ。
 掛け軸が下がり、違い棚に風流な小道具が並ぶ。円窓(えんそう)からは明かりが差し込み、白い光が畳へ丸く落ちている。障子の外には長い廊下が続き、静かな奥庭へと繋がっている。

 「あの……できました。羽織です」
 「そうか」

 一拍置いて、それだけだった。風花は慌てて風呂敷をほどく。

 「……ご覧ください」

 氷室の視線が、ようやく書物から外れる。そこにある風花が仕立てた羽織は、やや(いびつ)ではあるが丁寧に形をなしていた。

 「……間に合いました」

 氷室はしばらく無言で羽織を見ていた。
 そして静かに手を伸ばし、袖にふれる。細く長い、節ばった指先だった。

 (気に入ってもらえたのかしら……)

 風花は彼の一挙一動を見ては、ざわめき立つ胸を抑える。
 しばらくして、彼は一言。

 「良い」

 風花の目が見開かれる。

 「よ、良いですか……」
 「ああ」

 風花は一気に顔を赤らめ、袖で隠した。氷室はわずかに息を吐く。

 「……刺繍は」

 刺繍をほどこせということなのだろうか、風花は困惑する。

 「まだ整えられる」
 「い、今からでは……少し難しくて」
 「そうか」

 それ以上は追及しなかった。

 「ついてこい」

 突然そう言うと、氷室は立ち上がる。


 書院を出て向かった先は、奥庭だった。昼下がりの陽光が、庭へやわらかく差し込んでいた。
 縁側の向こうには、色とりどりの躑躅(つつじ)が咲き誇っている。薄紅の花は霞のようにやさしく、深紅の花は燃えるように鮮やかだった。丸く刈り込まれた躑躅の合間を、白い飛び石がゆるやかに続いている。
 庭の隅では、小さな池の水面が陽を受けてきらめいていた。時折、風が吹くたびに水面が揺れ、青葉の影を映し出す。竹がさらさらと鳴る。どこからか、鳥の声も聞こえた。
 穏やかで、静かな午後だった。

 「まあ、きれいですね……」

 久しぶりに外へ出た風花は、自然と足取りが軽くなる。

 (ここが敵国なんて嘘みたい……)

 清々しい天気に、鬱屈としていた気持ちは次第に晴れやかになる。身体の不調に悩まされていた風花は、ほんの少し身体が軽くなったと感じた。

 「風花」

 氷室は庭木の躑躅に手を伸ばすと、綺麗に手折った。

 「受け取れ」

 見事な大ぶりの躑躅の花が差し出される。

 (……花?)

 氷室は何も言わず背を向ける。その広い背中は沈黙のままだ。

 (少し、照れてた……?)

 風花は一瞬、言葉に詰まる。お礼なのだろうか――彼の優しさにほんの少し触れたような気がする。
 そして、風花は視線を落としたまま小さく言った。

 「次は刺繍も、考えてみます」

 氷室は短く答える。

 「そうか」

 それだけ言うと、氷室は池の方へ歩き出した。
 風花は躑躅を胸元で抱きながら、その後を追う。
 竹がさらさらと鳴り、二人の間には静かな沈黙だけが流れていた。