冷徹軍師は敗国姫を手放さない

 「あの……針仕事でわからないところがあって」
 「申し訳ございません奥さま、今は急用でして」

 侍女は目も合わせず、足早に去っていった。風花は小さく肩を落とす。屋敷に来てから、誰も長く話してくれない。指先を見下ろすと、針傷が赤く滲んでいた。

 (さみしい……ひとりぼっちだわ)

 敵国の姫だから取り合ってはくれないのか、風花自身に問題があって避けられていのか、それすらもわからない。ただ、誰一人として風花の前で足を止めてはくれない。身支度の侍女も言葉少なく、当たり障りのない返答しか返ってこない。故郷で姫君として存在していた風花にとって初めての経験だった。――惨めで悲しい、まるで自分はここにいない感覚。

 (なんか、疲れた……)

 氷室は執務で屋敷に戻らない日が続いている。あの夜以来、言葉を交わす機会もほとんどなかった。それは風花にとって好都合だったが、ほとんど人と話さず、一人で部屋に閉じ籠もった生活を送っている。
 ただひたすら、夫から頼まれた羽織を仕立てるだけの毎日。

 (牢獄みたいな生活だわ…)

 部屋の隅には、ぐしゃりと歪んだ反物が置かれている期限は、明日。――これを……完成させないとと、針を握り直すが、手が震えた。針先が指を刺して血が滲む。
 ちょうどその時、障子の向こうから声がした。

 「風花」

 氷室だった。

 「……入る」

 返事を待たずに戸が開く。明かりを背に、氷室が立っていた。氷室は視線だけを落とした。

 「手を見せろ」
 「……」

 逃げる間もなく、手首を取られる。傷を見た氷室は、わずかに目を細めた。
 突然触れたため、風花は動揺して肩をすくませる。この男がどんな人間で何を考えているのかわからない。警戒を強めて身体を強ばらせる風花をよそに、氷室は落ち着いたまま()いた。

 「これは何だ?」
 「いえ……その、羽織が間に合わなくて……慌てていたら刺してしまって」

 視線が反物(たんもの)へ向く。沈黙。
 風花は小刻みに震えながら頭を下げた。
 彼は敵国の軍師だ。どんな冷酷な人間かわからない。気に食わぬ状況があればそのまま斬り捨てられてもおかしくはない。風花は、側室とはいえ敵国の捕虜(ほりょ)。いや、戦利品――人ではなく物なのだから。

 「申し訳ありません……こんなにしてしまって」

 氷室は何も言わない。
 ただ、彼は風花の傷跡に包帯を巻いた。
 どうやらあらかじめ用意していたらしい。その手つきに風花は言葉を失う。氷室は丁寧に優しく、包帯を巻いている。想定外の男の姿に、風花はたじろいだ。
 彼は風花を叱責するどころか、やや思案している様子でため息を吐く。

 「誰かに見せたか」
 「……いいえ」
 「そうか」

 風花は目を丸くしながら、澄んだ氷室の横顔を見た。
 軍師という言葉がよく似合う。やはりなんて眉目秀麗(びもくしゅうれい)な人――端正な顔立ちの、理知的な目つきの美丈夫(びじょうぶ)だった。年の頃は二十後半か、三十前半か、といった具合だ。聡明(そうめい)な瞳は全てを見通しているかのようだ。双眸(そうぼう)は湖のように静かで、感情が薄い。

 「次の軍席までに仕上げろ」
 「……これはもう失敗していて、新しく……」
 「必要ない」

 氷室は反物を見る。

 「それで作れ」
 「でも、形にすら……」
 「やり直せ」

 短く言い捨てると、そのまま踵を返した。

 「え……あのっ」

 止める間もなく、扉が閉まる。風花は残された反物を見る。


 夜だけが静かに落ちていた。
 灯火の中で風花は一つ一つ反物に縫い付けた糸をほどいていた。ゆらゆらと揺らめく影は先ほどから固く縮こまっている。氷室の巻いた包帯が柔らかく、風花を慰めているような気分だった。風花は絡みつく糸を何度も何度も引き抜く。目を伏せる。

 (今の私には、こうすることしかできないから)

 風花はその晩、寝ずに糸を引き抜いていた。