氷室忠頼の屋敷は、城下町――将軍のお膝元の中でも一等地に居を構えていた。
(なんて立派な屋敷なのかしら)
その屋敷は、城下町の一角にありながら、まるで小さな城のような威容を見せていた。
高い土塀が敷地を囲み、瓦の塀屋根が長く続いている。正門には家紋を染め抜いた幕が掛けられ、その両脇には槍を持った門番が無言で立っていた。門をくぐれば、白砂の敷かれた広い前庭が静かに広がっている。手入れの行き届いた松が枝を張り、石灯籠の脇では細い水路が音もなく流れていた。
「あの……一人も妻がいないのですか」
窓の外には月が浮かび、花嫁衣装を淡く照らしていた。侍女は風花の髪をくしけずる。
「ええ。旦那様は、男色家ではないかとか、人の心がないのではないかとか、そんな噂まで立っていたほどで……」
――戦略のことしか頭にない、冷徹な男。それが、あの軍師の評判だった。
風花の胸が重くなる。誰も妻を持たなかったなんて、あまりにも不自然だ。
本来なら元服して成人を迎えた時に、妻を迎える。それをしなかったということは、彼に何らかしらの問題があったのではないかと風花は小さく息を吐いた。問題……それが何なのかは検討もつかないが。
私はもう、祖国のために弔いを済ませて、静かに生きるだけでいい。あの日、滅びた一族。私の心も、あの時に一度、死んだのよ――鏡面に映る花嫁姿を見ながら、思いに沈んだ。
「奥さまは寝所でお待ちください」
三日三晩をかけて、契りを交わす。
最後の夜に互いの鏡を交換して、結婚が成立する。
婚礼衣装に身を包んだ風花は、正座をしていた。
白粉をほどこされた顔は雪のように白く、唇には紅が細く引かれている。黒髪は艶やかに結い上げられ、金糸を織り込んだ組紐と、白菊の簪が添えられていた。
(なんて絢爛な……一年分の高津の民の食料はくだらないわ)
身にまとっているのは、幾重にも重ねられた小袖。内側には白、その上に淡紅。さらに深紅の衣が重ねられている。最も上には、豪奢な打掛が羽織られていた。絹地には、金銀糸で四季の花々が刺繍されている。――白菊、桜、藤、紅葉。刺繍は水面のようにきらめいた。
裾は長く畳へ流れている。風花の長く垂らした黒髪が裾の上で波打つ。
そこへ氷室が現れた。
婚礼の席に現れた氷室は、墨色の直垂姿。深い夜のような黒絹には、銀糸で家紋が織り込まれている。腰には太刀を佩く。その姿は華やかというより、静かな威圧感に満ちている。
「あの……」
風花はかすかに身を縮めた。肩が触れる位置に氷室が坐している。
氷室は無言のまま、盃に酒を注ぐ。
「……」
風花へ盃を差し出す。
「あっ、は、はい」
氷室は静かな目で見ていた。そして自らはその盃を一息に飲み干す。
「風花、年はいくつだ?」
名前を呼ばれて心臓がはねあがる。
「え……は、はい。十八になります」
月明かりが窓から差し込み、氷室の瞳を淡く照らす。しばらくの沈黙の後、彼は口を開いた。
「私は屋敷を空けることも多い」
「そ、そうですよね…」
「妻はその務めを支えるものだ」
「はい」
氷室は一拍置く。
「頼みがある」
「え?」
――再来週の執務で着る羽織を一着仕立ててほしいという。
風花は戸惑った。姫として最低限の針仕事は習っているが、反物から仕立てるなど簡単ではない。
「頼む」
静かに、逃げ道のない声。風花は小さく息を呑んだ。
「……わ、わかりました」
「頼んだ」
それだけ言うと、氷室は立ち上がった。引き止める間もなく、彼は寝所を出ていく。
風花はぽつんと取り残された。拍子抜けしたように、肩から力が抜ける。
翌夜も、さらにその次の夜も同じだった。氷室は必要最低限の言葉だけを交わし、寝所に長く留まることはない。
鏡の交換も、後日侍女を介して事務的に済まされた。
(女に興味がないのね。それならそれで、いいわ)
静かにそう思ったはずだったのに――胸の奥に、言いようのない違和感だけが残った。
氷室は古株の侍女とすれ違った。
「待て」
侍女は一礼する。
「旦那様、いかがなさいました?」
「今から伝えることを屋敷の使用人全てに伝えておけ」
「はい、なんなりと」
「……側室の頼み事を受けること、私の許可のない外出、情報を与えることを禁ずる」
「は、はい」
「破った者は処罰する」
「か、かしこまりました!」
氷室は静かに渡り廊下を歩き、側室の部屋のある離れから母屋へ戻って行った。
(なんて立派な屋敷なのかしら)
その屋敷は、城下町の一角にありながら、まるで小さな城のような威容を見せていた。
高い土塀が敷地を囲み、瓦の塀屋根が長く続いている。正門には家紋を染め抜いた幕が掛けられ、その両脇には槍を持った門番が無言で立っていた。門をくぐれば、白砂の敷かれた広い前庭が静かに広がっている。手入れの行き届いた松が枝を張り、石灯籠の脇では細い水路が音もなく流れていた。
「あの……一人も妻がいないのですか」
窓の外には月が浮かび、花嫁衣装を淡く照らしていた。侍女は風花の髪をくしけずる。
「ええ。旦那様は、男色家ではないかとか、人の心がないのではないかとか、そんな噂まで立っていたほどで……」
――戦略のことしか頭にない、冷徹な男。それが、あの軍師の評判だった。
風花の胸が重くなる。誰も妻を持たなかったなんて、あまりにも不自然だ。
本来なら元服して成人を迎えた時に、妻を迎える。それをしなかったということは、彼に何らかしらの問題があったのではないかと風花は小さく息を吐いた。問題……それが何なのかは検討もつかないが。
私はもう、祖国のために弔いを済ませて、静かに生きるだけでいい。あの日、滅びた一族。私の心も、あの時に一度、死んだのよ――鏡面に映る花嫁姿を見ながら、思いに沈んだ。
「奥さまは寝所でお待ちください」
三日三晩をかけて、契りを交わす。
最後の夜に互いの鏡を交換して、結婚が成立する。
婚礼衣装に身を包んだ風花は、正座をしていた。
白粉をほどこされた顔は雪のように白く、唇には紅が細く引かれている。黒髪は艶やかに結い上げられ、金糸を織り込んだ組紐と、白菊の簪が添えられていた。
(なんて絢爛な……一年分の高津の民の食料はくだらないわ)
身にまとっているのは、幾重にも重ねられた小袖。内側には白、その上に淡紅。さらに深紅の衣が重ねられている。最も上には、豪奢な打掛が羽織られていた。絹地には、金銀糸で四季の花々が刺繍されている。――白菊、桜、藤、紅葉。刺繍は水面のようにきらめいた。
裾は長く畳へ流れている。風花の長く垂らした黒髪が裾の上で波打つ。
そこへ氷室が現れた。
婚礼の席に現れた氷室は、墨色の直垂姿。深い夜のような黒絹には、銀糸で家紋が織り込まれている。腰には太刀を佩く。その姿は華やかというより、静かな威圧感に満ちている。
「あの……」
風花はかすかに身を縮めた。肩が触れる位置に氷室が坐している。
氷室は無言のまま、盃に酒を注ぐ。
「……」
風花へ盃を差し出す。
「あっ、は、はい」
氷室は静かな目で見ていた。そして自らはその盃を一息に飲み干す。
「風花、年はいくつだ?」
名前を呼ばれて心臓がはねあがる。
「え……は、はい。十八になります」
月明かりが窓から差し込み、氷室の瞳を淡く照らす。しばらくの沈黙の後、彼は口を開いた。
「私は屋敷を空けることも多い」
「そ、そうですよね…」
「妻はその務めを支えるものだ」
「はい」
氷室は一拍置く。
「頼みがある」
「え?」
――再来週の執務で着る羽織を一着仕立ててほしいという。
風花は戸惑った。姫として最低限の針仕事は習っているが、反物から仕立てるなど簡単ではない。
「頼む」
静かに、逃げ道のない声。風花は小さく息を呑んだ。
「……わ、わかりました」
「頼んだ」
それだけ言うと、氷室は立ち上がった。引き止める間もなく、彼は寝所を出ていく。
風花はぽつんと取り残された。拍子抜けしたように、肩から力が抜ける。
翌夜も、さらにその次の夜も同じだった。氷室は必要最低限の言葉だけを交わし、寝所に長く留まることはない。
鏡の交換も、後日侍女を介して事務的に済まされた。
(女に興味がないのね。それならそれで、いいわ)
静かにそう思ったはずだったのに――胸の奥に、言いようのない違和感だけが残った。
氷室は古株の侍女とすれ違った。
「待て」
侍女は一礼する。
「旦那様、いかがなさいました?」
「今から伝えることを屋敷の使用人全てに伝えておけ」
「はい、なんなりと」
「……側室の頼み事を受けること、私の許可のない外出、情報を与えることを禁ずる」
「は、はい」
「破った者は処罰する」
「か、かしこまりました!」
氷室は静かに渡り廊下を歩き、側室の部屋のある離れから母屋へ戻って行った。
