冷徹軍師は敗国姫を手放さない

 時は経ち、東雲国は春を迎えていた。
 春の城下町は、冬の名残をほどくように、ゆっくりと色づき始めていた。朝靄の向こう、白壁の町並みの上に淡い桜が霞む。城へ続く大通りには、行商人の声と荷車の軋む音が響き、開いたばかりの店先からは味噌や焼き魚の香りが流れてくる。
 川沿いでは子どもたちがはしゃぎながら駆け回り、娘たちは色鮮やかな小袖を揺らして橋を渡っていく。武士たちもどこか表情が緩み、槍を持つ足取りさえ冬より軽い。
 風が吹くたび、桜の花びらがひらひらと舞った。石畳に落ちた薄紅色は、まるで春そのものが町へ降り積もっていくようだった。
 ――遠くで、寺の鐘が鳴る。
 長い冬を越えた町は、新しい季節を迎えようとしていた。
 城下町の民は噂をしていた。何でも、将軍の大赦(たいしゃ)により、玉響義彦は剃髪(ていはつ)して仏門に入ったという。高津国の一族が怨霊とならないように、その嫡男自らが生きて供養せよとの赦しが出たのだ。将軍のその器の大きさに、民たちはこぞって褒め称えた。
 そして、今回の合戦で完璧な勝利を導いた軍師の天賦の才を口々にもてはやす。軍師――氷室忠頼の噂話はいつのまにか、物語となり、尾鰭(おひれ)がついて伝説になっていった。……何でも見通せる千里眼(せんりがん)を持つ軍師だとか、数十人を前にしても全員の話を全て理解できるだのとか巷談(こうだん)は絶えなかった。

 「何でも、氷室様は高津のお姫様を寵愛されているとか。側室だった高津のお姫様を、この間、正室になされたそうじゃ……」
 「おお、聞き及びましたぞ。正室になされる際、再び祝言(しゅうげん)を挙げたとか」
 「婚儀を二度経験するなど……寵愛の深さが思い知らされますね。わたくし、羨ましい限りですわ」

 無邪気な子どもたちの笑い声が聞こえ、民たちは微笑み合っている。