冷徹軍師は敗国姫を手放さない

 書院の空気は、はじめから重かった。――氷室親子は朝餉を済ませると、高津の残党が起こしている事件の動きを追い、今後の策を練っていた。
 高津国の残党と飛鳥国の何者かが手を組み、暗躍している。高津国の残党は玉響義彦であることが判明した。城下町の武家屋敷が数軒狙われ、手負いの黒装束の男を追ったところ郊外で足跡を絶っていた。東雲国の武士らにより調査を進めたところ、寺院付近で不審な者を見かけたという証言があった。寺院勢力は独自の勢力を持っており、不用意に乗り込むことはできなかった。いまだにこの世界が飛鳥国に統一されていた時代の文化の名残を持つ。そこまでの情報が出揃ったところで、氷室ら将軍たちの軍席では結論は出ていた――寺院に敵の根城がある。これから何をすべきなのかは明白だ――敵の根城を潰す。
 そこへたどり着くまでの道筋をどうすべきかを氷室親子は検討に検討を重ねていた。何度も盤面の駒を動かしては、推論を重ねる。ここ連日、膝を突き合わせては見立てを繰り広げる。張り詰めた親子の空気は、長年幾度も重ねられた師弟関係により、それは密になっていった。

 「……というわけです。私はこの策で敵の本拠地を叩こうと考えています」

 地図は寺院周辺の見取り図。墨で描かれた線の上に駒を置き、氷室はなめらかに動かした。

 「……」

 顕忠は腕を組んだまま口を開かない。
 二人の視線は、いつになく厳しい光を宿している。親子は互いに睨み合っていた。
 顕忠は地図の上に置いた指を動かさず、ただ一言で切り出す。

 「お前の見立ては、甘い!!」

 氷室が提案した戦略……盤面の駒を、顕忠は手で払いのけた。カラカラ……と音を立てて駒が机に散る。顕忠は怒りに震えながら机を叩いた。

 「却下だ!! …先のワシの策を取れ!!」

 いつもなら、その一言で一蹴されていた。――だが今は違った。
 氷室は、机からこぼれ落ちる駒を横目で見ながら、目を伏せる。――乾く。渇望。心が渇いてしかたがないのだ。父に従うことは容易だった。考えなくて済む。間違えたとしても、それは父の責任になる。だが今は違う。自分の目で見たものを、自分の言葉で語りたい。自分はこれまでどうしてこの気持ちに気がつかなかったのだろうか。胸の奥底に眠るこの渇きを、ずっと抑え込んできた。自分に考えがないわけではなかった。しかし、与えられたものをそのまま受け取ることが、一番の正しさなのだと言い聞かせることに慣れてしまったのだ。
 静かに地図を見下ろしたまま、氷室は言う。

 「お言葉ですが、そうは思いません」

 一瞬、空気が止まる。顕忠の眉がピクリと上がり、目を見開いた。これまで聞いたことのない息子の言葉に驚愕の声を上げる。息子だけではなく、東雲国の家臣たちでさえ、顕忠の策略の前では首を縦にするより仕方がなかったのだから。

 「な……何だと!!」

 氷室は顔を上げない。視線は地図の線のままだ。
 顕忠は怒りで身震いし、息子の澄ました顔を見た。――息子は幼い頃から戦略においては反論しなかった。自らの意見を持たぬわけではない。ただ、一度決めたことは飲み込み、父の判断を優先してきた。顕忠が命じれば従った。 理不尽な叱責も、過酷な命令も。 氷室忠頼という軍師は、父の期待に応えるためだけに盤面へ立ち続けてきた。

 「それは違うと考えております」

 顕忠の目が見開かれる。顕忠は言葉を失った――あの忠頼が反論したのだ。幼い頃から一度たりとも自らの決定に異を唱えなかった息子が。れは敵将の反撃よりも予想外だった。
 氷室は続ける。以前の自分なら黙っていただろう。父の見立てが正しい。そう思い込もうとしていた。だが今は違う。

 「父上が見ているのは、一局面です」

 顕忠は愕然とした。――この息子の変化は何なのだと、唇は動いたが声にはならなかった。

 「……同じものを見ておらぬな」

 氷室は静かに答える。

 「はい」

 短い肯定。しかし、そのまま続けた。

 「ですが、それで構いません」

 その瞬間、顕忠の顔が怒りで真っ赤になる。

 「忠頼!!」

 それでも氷室は動かなかった。しばらくしてから、顔を上げる。

 「……私はもう、父上の指示だけでは動けません」

 氷室の言葉は穏やかだったが、退かなかった。顕忠が激昂して立ち上がった。

 「忠頼、なんという親不孝者め!! ワシがお前を軍師に育てたのだぞ!!」

 氷室は静かに言う。

 「私は私の考えに従います」

 氷室はそれ以上は何も言わなかった。地図の上の線は、もう父のものではない。――そしてそれは、氷室忠頼のものだ。
 氷室はそのまま書院を後にする。静かに一礼した。父への敬意まで失ったわけではない。だが、もう父の影の中には戻れなかった。氷室は背を向ける。父の怒声は追ってきた。それでも振り返らない。初めて、自ら選んだ道だった。それでも、父の怒声は背後から飛んできた。それでも氷室は振り返らなかった。
 父に従うことは容易だった。考えなくて済む。間違えたとしても、それは父の責任になる。だが今は違う。誰かに与えられた道ではなく、自ら選んだ道を歩みたい。たとえその先に失敗が待っていたとしても。