氷室のつけた痕が赤い花びらのように風花の鎖骨に散っていた。乱された衣、緩んだ帯。黒髪はわずかに乱れている。風花の寝台には布の乱れが残り、それが昨夜の名残のように見えた。
身支度を整えていたたまには見当がついていただろうが、風花には何も聞かなかった。いつも通り髪をくしけずると、淡々と部屋を下がった。
「湯浴みの準備をしてまいります」
風花は汗ばむ身体を布で拭いながら、息をついた。生まれてはじめての経験の記憶は、胸の奥に静かな熱を残している。氷室の体温、呼吸、香りの一つ一つが、やけに鮮明に思い出された。これまで男性というものを知らなかった。まさか、氷室のような冷徹な軍師が、水面下であれほどまでに感情を昂ぶらせていたなんて……風花は人の心の深さに驚いていた。今まで理解したつもりでいた氷室のことを、全くわかってはいなかったのだ。冷徹な軍師――氷室忠頼が、女性一人にあれほど揺らぐとは。
(忠頼様……早く、お会いしたいです)
風花は、夢見ごこちのまま数日間を過ごした。あのできごとの後、氷室とは会っていない。氷室は父と共に城に泊まり込みで仕えていたからだ。針仕事をして、庭を少し歩いて、疲れたら休む。そうして普段通り過ごしていた。しかし気がつくと、心は氷室の元へ旅立ってしまう。
やがて夜遅く、氷室が戻る。
その晩、風花は寝所へと呼ばれた。
紅を引き、香を纏った小袖に身を包むと、たまは静かに灯を持って先導した。寝所には淡い月の光が差し込み、障子越しに白く揺れている。沈香の香りがかすかに漂い、夜の静けさが深く沈んでいた。
氷室は書を閉じ、風花に視線を向ける。
「風花、こちらへ」
変わらぬ無表情。低く落ち着いた声。その姿に、あの夜は夢だったのかもしれないと風花は一瞬思う。だが次の瞬間、氷室は彼女を引き寄せ、すぐそばへと座らせた。
「私のことを、片時も忘れずにいたようだな」
視線に射抜かれ、風花は言葉を失う。熱を帯びた記憶がよみがえり、頬がわずかに色づいた。
氷室はその手を取り、逃げることを許さない距離に引き寄せる。
「そなたは、私の妻だ」
その言葉は静かで、けれど確かだった。
風花の胸の奥にあった不安が、少しずつほどけていく。
唇が触れるほどに近づき、呼吸が混ざる。風花は思わず目を伏せるが、その距離から逃れることはできなかった。氷室の気配が、すぐそこにある。
やがて、二人の距離はさらに近づく。
言葉は途切れ、代わりに沈黙だけが部屋を満たしていく。
氷室の呼吸がわずかに乱れ、風花の胸もまた同じように揺れていた。
(この人のことを、もっと知りたい)
どうしようもなく惹かれていく気持ちに、風花はそっと手を伸ばす。
その指先が氷室の背に触れた瞬間、彼の瞳がわずかに揺れた。
「……忠頼様」
名を呼ぶ声は、いつもより少しだけ近かった。
身支度を整えていたたまには見当がついていただろうが、風花には何も聞かなかった。いつも通り髪をくしけずると、淡々と部屋を下がった。
「湯浴みの準備をしてまいります」
風花は汗ばむ身体を布で拭いながら、息をついた。生まれてはじめての経験の記憶は、胸の奥に静かな熱を残している。氷室の体温、呼吸、香りの一つ一つが、やけに鮮明に思い出された。これまで男性というものを知らなかった。まさか、氷室のような冷徹な軍師が、水面下であれほどまでに感情を昂ぶらせていたなんて……風花は人の心の深さに驚いていた。今まで理解したつもりでいた氷室のことを、全くわかってはいなかったのだ。冷徹な軍師――氷室忠頼が、女性一人にあれほど揺らぐとは。
(忠頼様……早く、お会いしたいです)
風花は、夢見ごこちのまま数日間を過ごした。あのできごとの後、氷室とは会っていない。氷室は父と共に城に泊まり込みで仕えていたからだ。針仕事をして、庭を少し歩いて、疲れたら休む。そうして普段通り過ごしていた。しかし気がつくと、心は氷室の元へ旅立ってしまう。
やがて夜遅く、氷室が戻る。
その晩、風花は寝所へと呼ばれた。
紅を引き、香を纏った小袖に身を包むと、たまは静かに灯を持って先導した。寝所には淡い月の光が差し込み、障子越しに白く揺れている。沈香の香りがかすかに漂い、夜の静けさが深く沈んでいた。
氷室は書を閉じ、風花に視線を向ける。
「風花、こちらへ」
変わらぬ無表情。低く落ち着いた声。その姿に、あの夜は夢だったのかもしれないと風花は一瞬思う。だが次の瞬間、氷室は彼女を引き寄せ、すぐそばへと座らせた。
「私のことを、片時も忘れずにいたようだな」
視線に射抜かれ、風花は言葉を失う。熱を帯びた記憶がよみがえり、頬がわずかに色づいた。
氷室はその手を取り、逃げることを許さない距離に引き寄せる。
「そなたは、私の妻だ」
その言葉は静かで、けれど確かだった。
風花の胸の奥にあった不安が、少しずつほどけていく。
唇が触れるほどに近づき、呼吸が混ざる。風花は思わず目を伏せるが、その距離から逃れることはできなかった。氷室の気配が、すぐそこにある。
やがて、二人の距離はさらに近づく。
言葉は途切れ、代わりに沈黙だけが部屋を満たしていく。
氷室の呼吸がわずかに乱れ、風花の胸もまた同じように揺れていた。
(この人のことを、もっと知りたい)
どうしようもなく惹かれていく気持ちに、風花はそっと手を伸ばす。
その指先が氷室の背に触れた瞬間、彼の瞳がわずかに揺れた。
「……忠頼様」
名を呼ぶ声は、いつもより少しだけ近かった。
