朝の光は、昨夜よりもやわらかかった。
障子の向こうで風が揺れ、庭の葉がかすかに鳴っている。風花が身を起こそうとすると、すぐ隣で氷室の手が動いた。
「……まだ、動くな」
低い声だった。命令のようでいて、どこか優しい。風花は小さく瞬きをして、そのまま身動きを止める。風花に覆いかぶさった氷室の指先が、そっと衣の乱れを整えていく。
「忠頼様……」
呼ぶと、氷室の手が一瞬だけ止まる。
「……なんだ」
返事は短いのに声が柔らかい。風花は少しだけ視線を上げる。
「嫌か」
問いかけは静かだった。風花はすぐに首を振る。
「いいえ……嫌では、ありません」
その瞬間、氷室の手の動きがふっとゆるむ。ただ、そこにいることを確かめるように、そっと風花の衣を整えている。風花はその沈黙に耐えきれず、氷室の手をつかむ。
「……では、私も忠頼様のお支度をお手伝いしてもよろしいですか」
氷室の視線が、ゆっくりとこちらへ向く。
「頼む」
それだけなのに、風花の胸の奥がじんわり熱くなる。風花はそっと、彼の袖口へ手を伸ばす。結びを整えるその動作は、どこかぎこちないのに、自然だった。
「私……幸せでした」
氷室は一瞬だけ黙る。それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……私もだ」
障子の外で、鳥が鳴く。朝が来ているのに、この部屋だけはまだ夜の余韻を抱えていた。
氷室はそのまま風花を抱きしめながら、ささやいた。
「そなたのことを愛している」
それは、氷室の中でずっと疼いていた言葉だ。
氷室は、風花の呼吸の温度を確かめるように言葉を落とした。そのまま二人の距離は、ゆっくりと近づいていく。
氷室は整えた風花の衣へ視線を落とし、小さく息をついた。ようやく戻った穏やかな時間が、静かに流れている。
風花は戸惑いながらも、その温もりから離れることができなかった。
「……忠頼様……」
氷室は一瞬だけ表情をゆるめた。確かめるような、短い沈黙。やがて二人の影は寄り添い、言葉は途切れた。静かな部屋に、互いの呼吸だけが残る。
昼下がりの穏やかな光が障子を薄く染める頃、氷室は手枕のまま風花を見つめていた。
「いや――私は、愛していた“つもりではなかった”のだがな……」
――高津との戦が始まる前。東雲へ潜っていた頃のことだ。
商人に扮した氷室は、あの地で風花に出会った。御神楽の舞と鈴の音の中で、その姿だけが妙に鮮明だった。
その瞬間から、計算は崩れ始めていたのかもしれない。
風花を手に入れることは策略だったはずなのに、いつの間にかそれだけでは収まらなくなっていた。
近づくほどに、遠ざける理由が消えていく。
突き放すほどに、離れられなくなっていく。
それが策なのか、感情なのか――。
氷室自身にも、もう分からなくなっていた。
「気づいた時には、もう心は定まってはいなかったのだ」
氷室のつけた痕が、赤い花びらのように風花の鎖骨に散っていた。乱された衣、緩んだ帯。黒髪はわずかに乱れ、夜の名残が静かに肌に残っている。
風花はそっと身を起こし、衣を整えようとした。その指先を、氷室の手が止める。
「……まだだ。昼餉なら侍女に持ってこさせる」
低い声だった。命令のようでいて、どこか確かめるような響きがある。
「忠頼様……けれど、もうこんな……」
氷室の手がわずかに止まる。
「……なんだ」
短い返事。その声の奥に、かすかな熱が潜んでいる。
風花は、ふと胸の奥に残る違和感に気づく。
――もう、戻れない。
理由も理屈もなく、ただ確かにそう思えた。
「嫌か」
静かな問い。氷室の視線が、まっすぐ風花を射抜く。
風花は首を振るのではなく、ほんの少しだけ目を伏せたあと、ゆっくりと顔を上げた。
「いいえ……嫌では、ありません」
その言葉に、氷室の指先が止まる。
しばらくの沈黙のあと、氷室は風花の帯を外しながら言った。
「もう一度だけ聞く」
その声音は静かでありながら、逃げ道を許さない。
「そなたは今、この場所を“選んで”いるのだな」
風花は息を呑む。
選ぶ、という言葉の重さに、胸の奥がきしむ。けれど同時に、理解してしまう。これは過去の延長ではない。誰かに流された結果でもない。
今、自分はここに立っている。
風花はゆっくりと、氷室の袖を握った。
「……はい」
その一言に、氷室の瞳がわずかに揺れる。
「私は……忠頼様のもとにおります」
言い切った瞬間、空気が変わる。
この部屋の中だけは、まだ別の時間に閉じ込められているようだった。
氷室はしばらく風花を見つめたあと、ようやく息を吐いた。
「……わかった」
それだけだった。
だがその一言は、肯定でも否定でもなく――契りそのものだった。
氷室は風花の手を取り、逃げることのできない距離へと引き寄せる。
触れれば壊れるほどに近いのに、もう離れる方が不自然だった。
「そなたは、私なのだ」
静かな声だった。けれどそれは支配ではなく、確認だった。風花は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく頷く。拒絶ではなく、理解として。
その瞬間、氷室の呼吸がわずかに乱れた。
初めてだと気づく。自分の想定から外れて揺れたのは。
氷室は風花の胸に手を当て、低く言う。
「だが、……良いのか? 戻るなら今だぞ。兄を選ぶこともできる」
けれどその言葉は、もう選択肢として機能していなかった。
風花は、そっと氷室の手に触れる。
「戻りません」
静かな声だった。
その一言で、すべてが確定する。
言葉が途切れたあと、残るのは沈黙ではなく――確かに結ばれたという事実だけだった。
――二人は夜が再び来るまで、もう一人の自分を探していた。深い海底に隠した、小箱を見つけるように。
障子の向こうで風が揺れ、庭の葉がかすかに鳴っている。風花が身を起こそうとすると、すぐ隣で氷室の手が動いた。
「……まだ、動くな」
低い声だった。命令のようでいて、どこか優しい。風花は小さく瞬きをして、そのまま身動きを止める。風花に覆いかぶさった氷室の指先が、そっと衣の乱れを整えていく。
「忠頼様……」
呼ぶと、氷室の手が一瞬だけ止まる。
「……なんだ」
返事は短いのに声が柔らかい。風花は少しだけ視線を上げる。
「嫌か」
問いかけは静かだった。風花はすぐに首を振る。
「いいえ……嫌では、ありません」
その瞬間、氷室の手の動きがふっとゆるむ。ただ、そこにいることを確かめるように、そっと風花の衣を整えている。風花はその沈黙に耐えきれず、氷室の手をつかむ。
「……では、私も忠頼様のお支度をお手伝いしてもよろしいですか」
氷室の視線が、ゆっくりとこちらへ向く。
「頼む」
それだけなのに、風花の胸の奥がじんわり熱くなる。風花はそっと、彼の袖口へ手を伸ばす。結びを整えるその動作は、どこかぎこちないのに、自然だった。
「私……幸せでした」
氷室は一瞬だけ黙る。それから、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……私もだ」
障子の外で、鳥が鳴く。朝が来ているのに、この部屋だけはまだ夜の余韻を抱えていた。
氷室はそのまま風花を抱きしめながら、ささやいた。
「そなたのことを愛している」
それは、氷室の中でずっと疼いていた言葉だ。
氷室は、風花の呼吸の温度を確かめるように言葉を落とした。そのまま二人の距離は、ゆっくりと近づいていく。
氷室は整えた風花の衣へ視線を落とし、小さく息をついた。ようやく戻った穏やかな時間が、静かに流れている。
風花は戸惑いながらも、その温もりから離れることができなかった。
「……忠頼様……」
氷室は一瞬だけ表情をゆるめた。確かめるような、短い沈黙。やがて二人の影は寄り添い、言葉は途切れた。静かな部屋に、互いの呼吸だけが残る。
昼下がりの穏やかな光が障子を薄く染める頃、氷室は手枕のまま風花を見つめていた。
「いや――私は、愛していた“つもりではなかった”のだがな……」
――高津との戦が始まる前。東雲へ潜っていた頃のことだ。
商人に扮した氷室は、あの地で風花に出会った。御神楽の舞と鈴の音の中で、その姿だけが妙に鮮明だった。
その瞬間から、計算は崩れ始めていたのかもしれない。
風花を手に入れることは策略だったはずなのに、いつの間にかそれだけでは収まらなくなっていた。
近づくほどに、遠ざける理由が消えていく。
突き放すほどに、離れられなくなっていく。
それが策なのか、感情なのか――。
氷室自身にも、もう分からなくなっていた。
「気づいた時には、もう心は定まってはいなかったのだ」
氷室のつけた痕が、赤い花びらのように風花の鎖骨に散っていた。乱された衣、緩んだ帯。黒髪はわずかに乱れ、夜の名残が静かに肌に残っている。
風花はそっと身を起こし、衣を整えようとした。その指先を、氷室の手が止める。
「……まだだ。昼餉なら侍女に持ってこさせる」
低い声だった。命令のようでいて、どこか確かめるような響きがある。
「忠頼様……けれど、もうこんな……」
氷室の手がわずかに止まる。
「……なんだ」
短い返事。その声の奥に、かすかな熱が潜んでいる。
風花は、ふと胸の奥に残る違和感に気づく。
――もう、戻れない。
理由も理屈もなく、ただ確かにそう思えた。
「嫌か」
静かな問い。氷室の視線が、まっすぐ風花を射抜く。
風花は首を振るのではなく、ほんの少しだけ目を伏せたあと、ゆっくりと顔を上げた。
「いいえ……嫌では、ありません」
その言葉に、氷室の指先が止まる。
しばらくの沈黙のあと、氷室は風花の帯を外しながら言った。
「もう一度だけ聞く」
その声音は静かでありながら、逃げ道を許さない。
「そなたは今、この場所を“選んで”いるのだな」
風花は息を呑む。
選ぶ、という言葉の重さに、胸の奥がきしむ。けれど同時に、理解してしまう。これは過去の延長ではない。誰かに流された結果でもない。
今、自分はここに立っている。
風花はゆっくりと、氷室の袖を握った。
「……はい」
その一言に、氷室の瞳がわずかに揺れる。
「私は……忠頼様のもとにおります」
言い切った瞬間、空気が変わる。
この部屋の中だけは、まだ別の時間に閉じ込められているようだった。
氷室はしばらく風花を見つめたあと、ようやく息を吐いた。
「……わかった」
それだけだった。
だがその一言は、肯定でも否定でもなく――契りそのものだった。
氷室は風花の手を取り、逃げることのできない距離へと引き寄せる。
触れれば壊れるほどに近いのに、もう離れる方が不自然だった。
「そなたは、私なのだ」
静かな声だった。けれどそれは支配ではなく、確認だった。風花は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく頷く。拒絶ではなく、理解として。
その瞬間、氷室の呼吸がわずかに乱れた。
初めてだと気づく。自分の想定から外れて揺れたのは。
氷室は風花の胸に手を当て、低く言う。
「だが、……良いのか? 戻るなら今だぞ。兄を選ぶこともできる」
けれどその言葉は、もう選択肢として機能していなかった。
風花は、そっと氷室の手に触れる。
「戻りません」
静かな声だった。
その一言で、すべてが確定する。
言葉が途切れたあと、残るのは沈黙ではなく――確かに結ばれたという事実だけだった。
――二人は夜が再び来るまで、もう一人の自分を探していた。深い海底に隠した、小箱を見つけるように。
