自室に戻って一息ついた風花のところへ、氷室は足を向けた。彼の手には銚子と盃がある。風花に父のことで気を遣わせてすまなかったという理由からだった。
氷室が母屋からの渡り廊下を通ると、側室の離れは、秋の終わりの冷気に包まれていた。庭には宵闇が落ちている。桔梗はすでに花を落とし、すすきが風に揺れていた。空だけが広く、薄紫に染まった夕空の上を、烏が鳴きながら渡っていく。
風花は、氷室を快く受け入れた。
「先ほどは、無理を通してすまなかったな」
灯火の下、上座であぐらをかく氷室の横顔が浮かぶ。少し離れた下座で、風花は正座をしていた。
「いえ、お父様にお会いできて良かったです」
「身体はどうだ?」
「ええ、すっかり良くなりました」
その言葉を聞き、氷室は息をつく。
そして、風花を自らの側近くに来るように手招いた。
「酒を持ってきた。そなたも少し、どうだ?」
「はい、喜んで」
二人は並んで坐す。風花は銚子を持ち、氷室の持つ盃に酒がこぼれないように慎重にそそいだ。氷室はそれを喉を鳴らしながらゆっくりと飲み干す。細長い首に浮かぶ喉仏が上下に動く。その首筋が危うい色気をまとっていた。風花は視線をそらす。
「風花……そなたも」
ふと、氷室は目を上げる。氷室は銚子を持ち、盃に酒を少しそそいで手渡した。風花は少しだけ口をつける。苦みが口の中に広がる。濁り酒が、盃の中に白く沈殿している。
先ほど、顕忠の「氷室様」呼びへの注意――風花はそればかりが気がかりだった。距離感のつかめぬ戦利品婚ゆえ「氷室様」と呼んでいたのだが、かえって失礼だったのだろうか。氷室も言わないだけで、不可思議に思っていたのかもしれない。
風花は、勇気をふりしぼって氷室に視線を向けた。自分の着物の裾を強くにぎりしめている。
「あの……忠頼様」
氷室は盃を口に運びながら、目を丸くした。そして、風花のほうに身体を向けた。風花は照れくさそうに微笑んでいた。
「なんだか変な感じがします……忠頼様と呼ばれるのはお嫌ではないですか?」
「いや」
どちらとも言えない返事だったが、風花にはそれが肯定だということが手に取るようにわかる。氷室は、耳をほんのり赤らめて、顔をそらしていたのだから。
「……風花は、嫌ではないのか? 私のことを名前で呼ぶのは」
風花は、背筋を正した。
「そんなことはございません。忠頼様は私の夫なのですから」
氷室は試すように言う。
「――私はそなたの一族を殺めた敵国の軍師なのだぞ」
風花の顔色がほんの少しだけ曇る。それでも、風花は背筋を正したまま、指をついて氷室の顔から視線をそらさない。
「それでも、忠頼様は私の夫ですから」
「そうか」
その真っ直ぐな言葉に、氷室は驚いた。これまでの風花とは雰囲気がちがう。どこか迷いが失せたような……憑き物がとれたように正々堂々としていた。
「忠頼様、二つほどお伝えしたいことがあります。お聞き願えますか?」
風花は指をついて、その場に平伏した。氷室への想いを自覚した時から、ずっと……揺れていた考えだ。
氷室は予想外の彼女の言動に目を見張る。
「構わない、続けろ」
風花は薬箱から毒薬を出すと、氷室の御前に置き、頭をついて平伏する。ゆっくりと目を伏せた。
「……一つ目は、忠頼様を欺いていたことです。私は兄・玉響義彦と密通しました」
風花は、震える指先を床につけたまま真実を吐露した。ずっと……揺れていた思いだ。兄を選ぶか、夫を選ぶか。横たわる二択に、今でもはっきりと答えを出せたわけではない。兄を見捨てることはできないが、目の前にいる氷室を裏切ることは、今の風花にはできなかった。風花の胸の奥に生まれた気持ちを、風花自身が裏切ることができない。
「そうか」
氷室の抑揚のない声に、風花は頭を床につけた。涙が頬を伝い落ち、床に染みをつくる。
「申し訳ございません……! 毒薬を受け取り、忠頼様を暗殺せよとの兄の命令を受けたこと、ずっと……黙っておりました!」
今でも故郷への想いは断ち切ることはできない。忘れ去ることはできない。兄の命を救いたい。――それらの感情は鉛となって風花の心の中へ沈んだ。
「そなたは、なぜ私を殺さなかった? 憎い仇ではないか。兄とともにここから逃げ出すこともできたはずだ。私を恐れてのことにしては、そうも見えない」
氷室は無表情のまま、風花へ目を向ける。風花は肩を揺らしながら泣いていた。
「……わからないのです」
「わからない?」
「私は、どう生きたらよいのかわからないのです。――けれど」
風花は目を上げた。青い瞳には光が宿っている。
「忠頼様を、今の私は裏切ることはできません」
その言葉には強い芯があった。
氷室は感嘆の声をもらし、目を見開いた。
――この姫君は、意志を持ち始めている。
戦利品となり、流されるまま敵の男の妻となり、策略に支配されるだけの頼りない姫君ではない。
(私は自分の策略で彼女の心を掌握したものだと考えていた)
氷室の脳裏によぎる――蜘蛛の巣に囚われた揚羽蝶。その揚羽蝶は、蜘蛛に身を喰われるより先に、その羽を伸ばして、空へ飛んでいく。絡め取られ、掌握され、潰される敵の姿……ではない。窮地に追い込まれても尚、勝機を見い出して予想外の力で戦局をひっくりかえす兵士そのものだ。氷室にとって初めての想定外の戦局の流れに、圧倒される。
「どのような処罰でも受けます……。この首、さし出す覚悟でございます! ただ、兄上だけは……どのような形であれ、兄上の命だけは助けてくださいませんか!」
氷室は顎に手を当てながら、少し苦笑した。
「――私の負けだ」
風花の身を起こしながら、氷室は言う。
「そなたの勝ちだ、もうそれ以上は何も言うな」
氷室は自分の袖で風花の涙をぬぐう。
「詫びなければならぬのは、私だ。私は風花の心をかき乱した……それ以上、自分を責めるな。欺いていたのは私なのだ」
誰かに自分の気持ちを素直に打ち明けるのは初めてかもしれない。氷室は気恥ずかしさにもどかしくなる。赤らめる顔を手で覆い隠した。
「そ、それで……そなたの二つめの伝えたいことはなんだ?」
風花は、氷室の瞳を見据えた。その瞳は強い光をはらんでいる。
「……してください」
「なんだ?」
風花は、再び平伏した。
「私を、真の妻にしてください!」
氷室は言葉を失った。
「……忠頼様の真の妻になりたいのです」
風花は熱を帯びた瞳をうるませて、氷室を見上げる。
氷室の思考が止まる。違う――なぜだ――と。氷室は、目を見開いた。こんなことがあるのだろうか。蜘蛛の巣に捕らえられた揚羽蝶は風花だと考えていた。いや、違ったのだ。歓喜とも絶望とも見分けがつかぬ感情が押し寄せてきて、のみこまれそうになる
(蜘蛛の巣に絡め取られた揚羽蝶は私だったのだ……)
心を支配されていたのは、氷室のほうだったのかもしれない。いや、はじめから――この姫君に心を掌握されてしまっていたのだ。
「そ……そなたは、自分が何を言っているのか、理解しているのか?」
風花は迷いながらも、突き進んでいた。視線をそらす氷室の顔を直視した。
「はい。承知の上です」
氷室は不意の展開に先が読めず、何の策も浮かび上がってはこなかった。――戦は算術ではない。いつの日にか禍津にたしなめられた言葉が脳裏によぎる。策を捨て、本能に身を任せることも大切なのかもしれない。氷室は、茫然自失となりながらも、その想いを受け止めようとしていた。
「……後悔はないな」
氷室は静かに風花へ手を伸ばした。
そのまま彼女を引き寄せ、すぐそばへと座らせる。風花は気恥ずかしそうに氷室を見上げた。その視線の儚さに、氷室の胸の奥が強く揺れる。
――離したくない。
抑えてきた熱が静かに波打ち、呼吸がわずかに乱れる。氷室は風花の手を取り、逃げられない距離へと近づけた。
そのまま、言葉が届かないほどの近さで止まる。
触れるか触れないかの距離に、風花の意識が揺れた。
氷室の腕の中で、風花はゆっくりと目を閉じる。呼吸が重なるたび、自分と彼との境界が曖昧になっていく。それはまるで、深い海の底へ沈んでいくようだった。水面の光は遠ざかり、音も、輪郭も、少しずつ溶けていく。代わりに残るのは、彼の存在の気配だけ。
冷たいはずなのに、確かに熱い。
その揺らぎに、風花は戸惑いながらも目を逸らせなかった。
(この人の中に、こんな感情があるなんて……)
二人の呼吸が絡まり、視線が結ばれる。
言葉はもう意味を持たず、ただ選択だけがそこにあった。
――私はずっと、この人を探していたのかもしれない。
風花はそっと腕を伸ばし、氷室に触れた。
その瞬間、氷室の瞳がわずかに揺れる。
暗く静かな海の底で、二人は互いの存在を確かめるように向き合った。
――まるで、もう一人の自分に出会ったようだ。
失っていたものが、ようやく同じ場所に辿り着いたように。
氷室が母屋からの渡り廊下を通ると、側室の離れは、秋の終わりの冷気に包まれていた。庭には宵闇が落ちている。桔梗はすでに花を落とし、すすきが風に揺れていた。空だけが広く、薄紫に染まった夕空の上を、烏が鳴きながら渡っていく。
風花は、氷室を快く受け入れた。
「先ほどは、無理を通してすまなかったな」
灯火の下、上座であぐらをかく氷室の横顔が浮かぶ。少し離れた下座で、風花は正座をしていた。
「いえ、お父様にお会いできて良かったです」
「身体はどうだ?」
「ええ、すっかり良くなりました」
その言葉を聞き、氷室は息をつく。
そして、風花を自らの側近くに来るように手招いた。
「酒を持ってきた。そなたも少し、どうだ?」
「はい、喜んで」
二人は並んで坐す。風花は銚子を持ち、氷室の持つ盃に酒がこぼれないように慎重にそそいだ。氷室はそれを喉を鳴らしながらゆっくりと飲み干す。細長い首に浮かぶ喉仏が上下に動く。その首筋が危うい色気をまとっていた。風花は視線をそらす。
「風花……そなたも」
ふと、氷室は目を上げる。氷室は銚子を持ち、盃に酒を少しそそいで手渡した。風花は少しだけ口をつける。苦みが口の中に広がる。濁り酒が、盃の中に白く沈殿している。
先ほど、顕忠の「氷室様」呼びへの注意――風花はそればかりが気がかりだった。距離感のつかめぬ戦利品婚ゆえ「氷室様」と呼んでいたのだが、かえって失礼だったのだろうか。氷室も言わないだけで、不可思議に思っていたのかもしれない。
風花は、勇気をふりしぼって氷室に視線を向けた。自分の着物の裾を強くにぎりしめている。
「あの……忠頼様」
氷室は盃を口に運びながら、目を丸くした。そして、風花のほうに身体を向けた。風花は照れくさそうに微笑んでいた。
「なんだか変な感じがします……忠頼様と呼ばれるのはお嫌ではないですか?」
「いや」
どちらとも言えない返事だったが、風花にはそれが肯定だということが手に取るようにわかる。氷室は、耳をほんのり赤らめて、顔をそらしていたのだから。
「……風花は、嫌ではないのか? 私のことを名前で呼ぶのは」
風花は、背筋を正した。
「そんなことはございません。忠頼様は私の夫なのですから」
氷室は試すように言う。
「――私はそなたの一族を殺めた敵国の軍師なのだぞ」
風花の顔色がほんの少しだけ曇る。それでも、風花は背筋を正したまま、指をついて氷室の顔から視線をそらさない。
「それでも、忠頼様は私の夫ですから」
「そうか」
その真っ直ぐな言葉に、氷室は驚いた。これまでの風花とは雰囲気がちがう。どこか迷いが失せたような……憑き物がとれたように正々堂々としていた。
「忠頼様、二つほどお伝えしたいことがあります。お聞き願えますか?」
風花は指をついて、その場に平伏した。氷室への想いを自覚した時から、ずっと……揺れていた考えだ。
氷室は予想外の彼女の言動に目を見張る。
「構わない、続けろ」
風花は薬箱から毒薬を出すと、氷室の御前に置き、頭をついて平伏する。ゆっくりと目を伏せた。
「……一つ目は、忠頼様を欺いていたことです。私は兄・玉響義彦と密通しました」
風花は、震える指先を床につけたまま真実を吐露した。ずっと……揺れていた思いだ。兄を選ぶか、夫を選ぶか。横たわる二択に、今でもはっきりと答えを出せたわけではない。兄を見捨てることはできないが、目の前にいる氷室を裏切ることは、今の風花にはできなかった。風花の胸の奥に生まれた気持ちを、風花自身が裏切ることができない。
「そうか」
氷室の抑揚のない声に、風花は頭を床につけた。涙が頬を伝い落ち、床に染みをつくる。
「申し訳ございません……! 毒薬を受け取り、忠頼様を暗殺せよとの兄の命令を受けたこと、ずっと……黙っておりました!」
今でも故郷への想いは断ち切ることはできない。忘れ去ることはできない。兄の命を救いたい。――それらの感情は鉛となって風花の心の中へ沈んだ。
「そなたは、なぜ私を殺さなかった? 憎い仇ではないか。兄とともにここから逃げ出すこともできたはずだ。私を恐れてのことにしては、そうも見えない」
氷室は無表情のまま、風花へ目を向ける。風花は肩を揺らしながら泣いていた。
「……わからないのです」
「わからない?」
「私は、どう生きたらよいのかわからないのです。――けれど」
風花は目を上げた。青い瞳には光が宿っている。
「忠頼様を、今の私は裏切ることはできません」
その言葉には強い芯があった。
氷室は感嘆の声をもらし、目を見開いた。
――この姫君は、意志を持ち始めている。
戦利品となり、流されるまま敵の男の妻となり、策略に支配されるだけの頼りない姫君ではない。
(私は自分の策略で彼女の心を掌握したものだと考えていた)
氷室の脳裏によぎる――蜘蛛の巣に囚われた揚羽蝶。その揚羽蝶は、蜘蛛に身を喰われるより先に、その羽を伸ばして、空へ飛んでいく。絡め取られ、掌握され、潰される敵の姿……ではない。窮地に追い込まれても尚、勝機を見い出して予想外の力で戦局をひっくりかえす兵士そのものだ。氷室にとって初めての想定外の戦局の流れに、圧倒される。
「どのような処罰でも受けます……。この首、さし出す覚悟でございます! ただ、兄上だけは……どのような形であれ、兄上の命だけは助けてくださいませんか!」
氷室は顎に手を当てながら、少し苦笑した。
「――私の負けだ」
風花の身を起こしながら、氷室は言う。
「そなたの勝ちだ、もうそれ以上は何も言うな」
氷室は自分の袖で風花の涙をぬぐう。
「詫びなければならぬのは、私だ。私は風花の心をかき乱した……それ以上、自分を責めるな。欺いていたのは私なのだ」
誰かに自分の気持ちを素直に打ち明けるのは初めてかもしれない。氷室は気恥ずかしさにもどかしくなる。赤らめる顔を手で覆い隠した。
「そ、それで……そなたの二つめの伝えたいことはなんだ?」
風花は、氷室の瞳を見据えた。その瞳は強い光をはらんでいる。
「……してください」
「なんだ?」
風花は、再び平伏した。
「私を、真の妻にしてください!」
氷室は言葉を失った。
「……忠頼様の真の妻になりたいのです」
風花は熱を帯びた瞳をうるませて、氷室を見上げる。
氷室の思考が止まる。違う――なぜだ――と。氷室は、目を見開いた。こんなことがあるのだろうか。蜘蛛の巣に捕らえられた揚羽蝶は風花だと考えていた。いや、違ったのだ。歓喜とも絶望とも見分けがつかぬ感情が押し寄せてきて、のみこまれそうになる
(蜘蛛の巣に絡め取られた揚羽蝶は私だったのだ……)
心を支配されていたのは、氷室のほうだったのかもしれない。いや、はじめから――この姫君に心を掌握されてしまっていたのだ。
「そ……そなたは、自分が何を言っているのか、理解しているのか?」
風花は迷いながらも、突き進んでいた。視線をそらす氷室の顔を直視した。
「はい。承知の上です」
氷室は不意の展開に先が読めず、何の策も浮かび上がってはこなかった。――戦は算術ではない。いつの日にか禍津にたしなめられた言葉が脳裏によぎる。策を捨て、本能に身を任せることも大切なのかもしれない。氷室は、茫然自失となりながらも、その想いを受け止めようとしていた。
「……後悔はないな」
氷室は静かに風花へ手を伸ばした。
そのまま彼女を引き寄せ、すぐそばへと座らせる。風花は気恥ずかしそうに氷室を見上げた。その視線の儚さに、氷室の胸の奥が強く揺れる。
――離したくない。
抑えてきた熱が静かに波打ち、呼吸がわずかに乱れる。氷室は風花の手を取り、逃げられない距離へと近づけた。
そのまま、言葉が届かないほどの近さで止まる。
触れるか触れないかの距離に、風花の意識が揺れた。
氷室の腕の中で、風花はゆっくりと目を閉じる。呼吸が重なるたび、自分と彼との境界が曖昧になっていく。それはまるで、深い海の底へ沈んでいくようだった。水面の光は遠ざかり、音も、輪郭も、少しずつ溶けていく。代わりに残るのは、彼の存在の気配だけ。
冷たいはずなのに、確かに熱い。
その揺らぎに、風花は戸惑いながらも目を逸らせなかった。
(この人の中に、こんな感情があるなんて……)
二人の呼吸が絡まり、視線が結ばれる。
言葉はもう意味を持たず、ただ選択だけがそこにあった。
――私はずっと、この人を探していたのかもしれない。
風花はそっと腕を伸ばし、氷室に触れた。
その瞬間、氷室の瞳がわずかに揺れる。
暗く静かな海の底で、二人は互いの存在を確かめるように向き合った。
――まるで、もう一人の自分に出会ったようだ。
失っていたものが、ようやく同じ場所に辿り着いたように。
